第16話

 ジュリアは屋敷に帰ってからも上機嫌だった。元々何もしないで居るのは性に合わない質なのだ。少しでも頭と体を動かしていた方が気が紛れる。


「ガウス様が、簡単な雑用だけれど仕事をさせて下さることになったの。とても嬉しいわ! 図書室の蔵書を読むのも楽しかったけれど、それだけでは体が鈍ってしまうもの。

 それに、クルメル商会はさすがね! 事務所にある昇降機には感動したわ! 資料もきちんと整理して残してあって、ちゃんと適正な経営がなされている証拠だと思うの。まだ今日一日しかやっていないけれど、明日も楽しみだわ」


 ジュリアはカンナに興奮気味に話した。

 カンナはジュリアの勢いに一瞬面食らったものの、すぐに正気を取り戻すと、無感動に応えた。


「それはようございました。さて、夕食をお持ちします。よろしいですか」

「ガウス様は……まあ一緒には食べないわよね。あ、そうだ。よかったらダイニングで食べられないかしら」

「畏まりました」


 しばらくして準備が整ったとカンナから報告があり、ダイニングルームに向かう。

 すると8人ほどが座れそうな大きなテーブルに、1人分の夕食が用意されていた。

 壁にはマルタと金髪のメイド、ルーナが控えている。てっきりカンナだけであると思っていたため、ジュリアは驚いた。

 カンナに席を引かれ、ジュリアが座る。

 ルーナが水を入れたカラフェを持ち、グラスに注ごうとした。そこで、ルーナの手が震えカラフェから水が溢れ、ジュリアのドレスを濡らす。


「っ……申し訳ございません」


 ジュリアは、またかと溜息をつきルーナの顔を見上げると、意外にもルーナの顔には失敗したと焦りの表情が浮かんでいた。

 そして何やら顔色が悪い。

 ルーナは慌ててナプキンでジュリアのドレスを拭いた。


「あなた、もしかして具合が悪いのではなくて? 酷い顔色だわ。気にしないで。わざとではないのでしょう? それに、ドレスはほら、そんなに濡れていないのよ。裾の方だけで、冷たくもないし。具合が悪いなら、今日はゆっくり休んだら? ねえマルタ。問題はないかしら?」

「……ええ。ガウス様のお世話も私とエマで行います。ルーナ。今日は下がりなさい」

「はい……申し訳ありません。失礼いたします」


 ルーナは深くお辞儀をすると、ダイニングルームを後にした。

 ジュリアは心配に思いながらも、食事を始めた。



 マルタもカンナも、その間何も言わない。しかしトビーの作った温かな絶品料理に舌鼓を打ち、ジュリアは気にしなかった。

 午後軽く働いたからか、お腹が空いておりあっという間にデザートまで完食した。


「ああ。本当にウォルナット家のご飯は美味しいわ。ねえ、コックにお礼が言いたいの。呼んで来てくれない?」

「……畏まりました」


 マルタは頭を下げ、一旦食堂を出て行く。

 厨房は食堂のすぐ近くだ。すぐにマルタはトビーを連れて帰ってきた。


「あなたがコックね。お名前は何というのかしら」


 ジュリアは敢えてそう尋ねた。

 今朝ではなく、今が初対面という体にしてくれという暗黙の合図だ。


「はい、トビーと申します。初めまして、これからよろしくお願いいたします、奥様」


 トビーは正しくその意図を感じ取ってくれたようで、そう挨拶した。

 ジュリアの意図はこれでもあった。トビーと正式に出会ったことを周りに見せないと、トビーの話が出来ないからだ。うっかり、口を滑らせるとも限らない。

 それに、直接お礼を言いたいのも確かだった。


「トビー。朝から私の体調や要望を聞いて素晴らしい料理を作ってくれてありがとう。とても美味しいかったわ。今後ともよろしくね」

「光栄です。よろしお願いいたします」


 トビーはそう言って頭を下げた。

 ジュリアはなんだか秘密の芝居を打っているような気がして、むず痒くなった。


 すると、そこにスチュアートがやってきた。ガウスが帰宅したのだろう。

 時刻は7時をとうに過ぎ、8時に近い。昨日よりも遅くなったようだ。何だかんだ、昨日はジュリアが来たために早く帰宅したのかもしれない。


 ジュリアはスチュアートたちと共にエントランスホールに出迎える。

 ルーナの姿はない。きちんと休んでいるようだ。


「お帰りなさいませ。ガウス様」

「……ああ」

「お疲れ様でございました。それと、申し訳ございません。夕食を先にいただいてしまいました」

「はっ。俺がお前と一緒に食事をとると思うのか。用が済んだなら、とっとと引っ込め。目障りだ」

「……畏まりました。それではごゆっくり。失礼いたします」


 ジュリアは一礼して自室に下がった。


 風呂に入り、カンナの用意してくれたネグリジェに着替える。

 昨日はうっかりドレスのまま眠ってしまったっことを今更ながらに後悔した。昨日の水色のドレスは、形が崩れてしまったのではないだろうか。




 カンナを下がらせ、1人になる。

 ベッドに腰掛け、はぁっと息を吐き寝転んだ。目を閉じると、途端に悲しみが押し寄せてきた。

 父や母、そして兄、マルセルの顔が浮かんでくる。

 どうしても眠れないジュリアは起き上がり、書き物机に向かった。

 引き出しを開くと、万年筆とクルメル商会の紋章が型押しされた便箋が入っていた。

 滞在する客のために、常に用意してあるものだろう。


 ジュリアはそれらを使い、手紙を書いた。


 一つは母に。

 母の体調を気遣い、心配していること。

 父の死を招いた自分の至らなさに対する謝罪。

 決して兄の言うような事実はなく、自分は無実であるということ。

 ホルツでもどうにかやっていけそうなことと、3年後には自由の身になり、必ず帰るということ。

 どうかジュリアのことは心配せずに、自身の体調回復だけに注力して欲しいということ。

 ジュリアは書きながら、勝手に溢れる涙を止めることができなかった。


 もう一つはエミリアに。

 自分の置かれた状況の説明と、心配は要らないこと。

 またエミリアやティンバーの近況を尋ねる手紙だ。

 エミリアは次期王妃だったのだ。

 ジュリアよりもよっぽど苦しい状況に置かれているに違いない。

 ジュリアはとても心配していた。


 そして最後の一つは、マルセルに。

 これまで自分の独りよがりで付き合っていたことに対する謝罪。

 自身の状況の説明。

 婚約破棄はジュリアの意志ではなかったこと。

 そして改めて、自分は何一つやましいことはしていないこと。

 迷いに迷って、最後に幸福を願う一文を足した。


 3通の手紙を書き上げた頃、とっぷりと夜が更けていた。

 明日も何か仕事があるだろう。

 ジュリアはベッドに横になり、目を瞑った。連日の疲れが残っていたのか、その日は夢も見ずにぐっすりと眠った。



 翌朝、ジュリアはカンナに手紙を出してもらうよう頼んだ。

 しかし何日経っても、誰からも返事は届かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る