第15話
ガウスが開いた扉の向こうは、執務室のようだった。
広々とした室内の壁中に資料が納められている。思ったよりも綺麗に整頓されていた。
部屋の最奥にある一際大きいデスクはガウスのものだろう。
そのデスクを前にして右手に、一回り小さいが立派なデスクがある。そこには、1人の男が座っていた。
年はガウスよりも幾らか上だろうか。
金髪だが長い前髪だけが茶髪で、それを真ん中で分けた前下りのボブという印象的な髪型だ。線の細い優男風の端正な顔立ちで、ガウスとは別の層の女性たちに人気がありそうだ。
ガウスが部屋に入ってきたことを認めると、男は呆れを滲ませつつも、親しげに声を掛けた。
「相変わらず遅よう様ですね。もう昼すぎですよ? おや、そちらの女性はどちら様ですか?」
「きちんと仕事はこなすから問題ないだろ。こいつは俺の妻になった女だ。形ばかりだがな」
ガウスが紹介とも付かない紹介をする。
名前も伝えないのであれば、やはり紹介ではないのかもしれない。
「これはこれは。あなたが噂の奥様ですか。随分と……話に聞いていた印象とは異なりますね。私はユアン・ヒッコリーと申します。これでもクルメル商会の副会頭をしております。どうぞよろしくお願いいたします」
ユアンはにこりと笑顔で言った。
ジュリアは内心驚く。
これまでジュリアの噂を知って敵対心を露わにしない人物は、船乗りの男以来初めてだ。
ユアンの笑顔にはどうも色気が感じられ、多くの女性は簡単に陥落しそうである。
だが、ジュリアは気付いていた。
ユアンの目は、鋭くジュリアを観察し、値踏みしていることを。
ジュリアはその印象を心に留め、自身も笑顔を作った。
「恐れ多くも、ガウス様の妻となりましたジュリアと申します。嵐のせいで、ようやく昨日こちらに到着したのです。お会いできて光栄ですわ」
そう言ってジュリアは美しいカーテシーをする。
ジュリアはお転婆故によく家庭教師を悩ませたが、カーテシーだけは自信があった。きっと体幹が鍛えられていたからだろう。この数週間で体力は落ちたが、まだカーテシーは問題なく出来そうだ。
美しいカーテシーにはある程度効力がある。
上流階級と付き合いのある人物が見れば、印象は良いはずだ。
「こいつにはこれから雑用をさせろ。くれぐれも経営に関わるようなことはやらせるなよ」
ガウスはそう言って、自分のデスクにさっさと座ってしまった。
ジュリアは、ガウスが自分に仕事をさせる気だと知って驚いた。
どういうつもりかは分からないが、家でくさくさしているよりずっといい。
きっと出ないのだろうが、給料も気になる。しかしそれは追々確認しようと思った。
「まさか仕事をさせていただけるなんて、とても光栄ですわ。どんなことでも構いませんので、やらせてくださいませ!」
ジュリアは思わず心からの笑顔で、胸の前に両手で拳を作る。
ユアンは一瞬きょとんとした後、声を立てて笑った。
「ははは。気合十分ですね。それでは、明日以降の業務は後で考えるとして、今日はこの部屋の資料整理をお願いしてもよろしいですか。後ろの棚にある資料を、種類と年代別にまとめて下さい」
「分かりましたわ。それは今日中という事でよろしいでしょうか?」
「ええ。大丈夫です。ですがこの量ですので、今からだと今日中には終わらないかもしれませんね。それなら出来るところまでで構いません。ああ、それから。ガウス様の奥様に敬語を使われるのは居心地が悪いですね。ぜひ普通にお話しください」
「いいえ。ここではあくまでヒッコリー様が上司ですわ。そうしたことはきちんとしなくては。ですから逆にヒッコリー様が敬語を外してくださいませ」
「いや……はは。これは参りました。ではそうして貰うよ。ガウス様、よろしいでしょうか?」
「……勝手にしろ」
ガウスはジュリアの方を見ずに吐き捨てた。
ユアンは両肩をあげながらも、ジュリアによろしくと微笑んだ。
こうしてジュリアは思ったよりもずっと居心地良く商会で仕事をすることが出来た。
ガウスも仕事中は黙々と業務をこなし、ジュリアに対し悪意ある態度を示さなかった。公私は切り分けられるのだろう。
これがジュリアでなく、別の女性だった場合はそうもいかないのかもしれないが。
ユアンはジュリアの質問に丁寧に答え、スムーズに作業は進んだ。そして終業時間までには、きっちりと作業を終えることが出来たのだった。
「さすがコンテナ男爵の娘さんだけある。仕分けが早いね。そして的確だ」
「いえ、そんなことは。元々ある程度種別ごとに纏っていましたし、大したことはありません」
本気で感心している様子のユアンに、ジュリアは頬を染めた。ジュリアにとって仕事ぶりを褒められることが、何より嬉しいことだ。純粋に喜んでいた。
「ふん。付け上がるなよ。俺はまだこの資料を確認してから出る。お前は1人で帰れ。道はもう覚えただろう」
時刻は夜6時を回る。夏のこの時間はまだ明るい。
確かに1人で帰っても問題ないだろう。
「畏まりました。それでは、お先に失礼いたします。ガウス様も、ご無理なさりませんように」
ジュリアは丁寧にカーテシーをする。
そして1人執務室を後にした。
さて、ここから降りるために昇降機を使いたいが、使い方が分からない。
先程ガウスがやっていたことを見様見真似でやってみればいいのだが、未知の装置に操作を失敗すると昇降機が落ちるのではないかと心配になった。
やはり階段で降りるべきかとジュリアが逡巡していると、執務室からユアンが出てきた。
「やっぱり、初めて見ると戸惑うよね。ほら、一緒に降りよう」
どうやらジュリアのことを心配して出てきてくれたらしい。ジュリアは素直に嬉しかった。
ユアンは壁に取り付けてある扉を開けて昇降機に入ると、ジュリアも中に誘った。
「ありがとうございます。乗ってみたかったのですが、操作が分からなくて……」
「簡単だよ。ほら、このレバーを左に倒すと下に、右に倒すと上に行く。最近よく聞くようになった蒸気機関で動いてるんだ」
「わあ! そうなのですね! センダン商会でも、船や船積み用クレーンに蒸気機関が応用出来ないか研究していた所ですのよ!そんな最先端な技術が使われているなんて!」
「仕事を始めた時もそうだったけれど、君は本当に、きらきらした目で話すんだね。何だかとてつもなく凄いことをしている気分になるなあ」
「お恥ずかしいですわ。つい、思ったことが出てしまって……」
「いや、いいんだ。それはきっと君の美点だろう。……ガウス様には、勿体無いくらいだ」
「え?」
そこでユアンは何かを誤魔化すようににっこりと笑った。
「ほら。1階に着いたよ。本当は屋敷まで送りたいけれど、それだとガウス様にどやされてしまうからね。気を付けて帰って」
「はい。ありがとうございました。明日もどうぞよろしくお願いいたします」
ジュリアは目を伏せてカーテシーをしていたため気付かなかった。
ジュリアを見つめるユアンの表情が、一瞬抜け落ちていたことに。
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