第12話 sideガウス
「ガウス様。本当に奥様のところに行かなくてよろしいのですか?」
「お前がそれを言うのか。この状況で」
「ふふふ。そうですね」
時は遡り、昨日の晩。
本来ならジュリアとの初夜であるはずの晩に、ガウスは自室のベッドの上に居た。
腕には黒髪のメイド、エマの頭を乗せている。
2人は一糸纏わぬ姿で、明らかに情事の後の気配を漂わせていた。
カンナがジュリアに告げたこと。
それはほぼ本当のことだった。
メイドの内、エマともう1人、金髪碧眼のルーナはガウスの愛人であった。
ガウスが他の愛人に会いに行かない日は、日替わりで寝室に呼ばれている。
しかしカンナは呼ばれたことがない。
それはカンナがまだ年若いことと、カンナの出自に由来する。
カンナはかつてクルメル商会が世話になっていたこともあるバーチ商会の娘であった。
とある事情から路頭に迷うことになり、カンナだけはと、まだ幼い内からウォルナット家のメイドとして雇い入れたのだ。
いくらガウスといえども、世話になった男の娘に手を出すことは憚られた。
カンナ自身は、それが面白くないのだが。
ガウスは当初、ジュリアのことを好意的に迎えるつもりでいた。
と言うのも、都合がいいと思ったからだ。
周りから早く身を固めろとうるさく言われ、辟易としていたが、ガウスは女遊びをやめるつもりは毛頭なく、そんなガウスに妻帯しろなどとは無理な話であった。
どこかに、愛人がいくら居ても何も言わず、実家もしゃしゃり出てこない、都合のいい女はいないものかと夢想していた。
そんな時にジョシュアから打診され、これは渡りに船だと思ったのだ。
ジョシュアから聞いた限り、性格の悪い女であることには違いなさそうだが、かつて会ったことのあるジュリアはとても可愛らしい少女だった。
あの少女が大きくなれば、それなりに美しい女性に成長しているだろうし、コンテナ男爵と縁者にもなれ、かつ愛人が他に居ても文句を言われない最高の結婚だと思った。
ところがどうだ。
ジュリアを迎え入れるべく準備をしていて頃、その手紙は届いた。
それは友であるジョシュアからもたらされた、衝撃的な内容だった。
『親愛なる友、ガウスへ。
この手紙を読む頃、既に我が愚妹はそちらに到着していることだろう。
俺の願いを聞き入れて、あの愚妹を娶ってくれたこと、心から感謝する。
そんな折、こんなことを君に伝えなければならないことを酷く悔しく思う。
昨日、父が亡くなった。
とても信じられないだろうが、本当のことなんだ。俺もまだ、とても信じられない。
父は嵐で海上が大荒れだった時に、無理矢理海に出たんだ。普通だったらあり得ないことだが、父はそうせざるを得なかった。
全ては、ジュリアの手前勝手が招いたことだ。
前にも手紙で書いたが、ジュリアは許されざることをした。
王太子であるアーク殿下の覚えめでたい素晴らしい女性を、一方的な嫉妬から厭い、一歩間違えれば死に至る怪我を負わせた。他にも様々な嫌がらせをしており、俺が諫める言葉にも耳を貸そうとしなかった。
ジュリアは自分がしでかした事を、両親に隠していた。
俺も父に話したが、父は信じなかった。
そして両親が商談で数週間留守にする内に、ついにローズウッド子息から婚約破棄をされたんだ。
正直、ジュリアはティンバーのフルールでは針の筵だったよ。同じくそのご令嬢を虐げていた女たちしか、味方は居なかった。
だからだろう。
急に、今すぐティンバー王国を出たいと言い出した。
だから君の話をしたんだ。クルメル商会のガウスが、お前を娶ってくれると言っているとな。
最初、あいつは頷き、だから君との婚姻を結んだ。なのにあいつは、「やっぱり平民なんかに嫁げない!」と言って家を飛び出した。
ちょうど入れ替わりで帰ってきた父が、慌ててジュリアを追いかけてしまった。
あんなに荒れた海を渡るなんて、無謀にも程がある。でも父にとってはたった1人の娘だ。心配だったのだろう。無茶を顧みず出て行ったんだ。
その結果が、これだ。
もう、俺はジュリアに付き合えない。
母は心労が祟って倒れてしまった。元々心臓が丈夫ではないんだ。このままでは、母まで失ってしまう。
マホガニー家とジュリアは、縁を切る。
ホルツ王国でも、3年間白い結婚を続けたなら、離縁が出来たはずだ。どうか3年耐えてくれ。あいつを放逐し、失踪扱いにしても構わない。
君には大きな借りができてしまった。
クルメル商会との関係は、ジュリアとは関係なく今後ずっと続けさせてもらう。いや、迷惑料としてこれまで以上に便宜を図るよ。
安心してくれ。
どうか、友として不甲斐ない俺を許してくれ。
君に多くの幸あらんことを。
ジョシュア・マホガニー』
ガウスはジョシュアの手紙を思い出すと、顔を顰めた。
ガウスはジャンのことを尊敬していた。
偉大な父に臆すことなく、更なる偉業を成し遂げた天才。そんなことを鼻にかけることもせず、細かいことは全部笑い飛ばすような豪胆さ。
その全てに憧れていた。
ガウスは若くしてクルメル商会を継いだ。それはまだ幼い頃に母を、そして10代半ばで父を共に病で失ったからだ。
成人してすぐに商会を背負って立つようになったガウスにとって、ジャンは第二の父のような存在だった。
息子であるジョシュアのことも気に入っていたし、確かな友情を持っていた。
ジャン同様、偉大な父の影に怯えず堂々と前を向く様は、年下ながら密かな尊敬の念すら持っていた。
ジョシュアはジャンのような豪胆さはないものの、真面目で誠実な人柄だ。だからこそ、ガウスはジョシュアのことを心から信頼していた。
実は、ガウスにはある悪癖があった。
一度信用した人物、自分の懐に入れた人物のことを、完全に信じ切ってしまうのだ。
多少辻褄の合わないことや不信に思うことがあったとて、見逃してしまう。それは普段の商人としてのガウスにはあり得ないことだった。
今回のこともそうだ。
何故ジュリアの結婚を、ジャンでなくジョシュアが打診してきたのか。疑問に思って然るべきである。
また問題のある娘を重要な取引先に嫁がせるなど、商人として悪手だ。相手に貸しを作ることは目に見えている。むしろ自国の自分たちの目の届く範囲で見張っていた方がいい。
ジュリアが平民に嫁ぐことを嫌がって飛び出してきたのなら、何故今ガウスの邸宅に居るのか。
ガウスとて普段ならばすぐに疑問に思うはずが、他ならぬジョシュアの言葉である為に、疑わなかった。
自分がジョシュアと友人で、不出来な娘も御せると信用されたからだろう。
ジュリアも飛び出したはいいものの、女一人で行く宛もなく、またこの自分の妻など平民であっても釣がくると思い直したのだろう。
ガウスは勝手にそんな解釈をしていた。
実際、それまでのジョシュアが信頼に足る人物であることは、疑いようもなかった。
ガウスはこの時、一点の疑いも持ち合わせていなかった。
ガウスはジュリアが許せなかった。
自分が信頼していた2人を苦しめ、ジャンの命さえ奪ったジュリアが。
今日、実際にジュリアに会った途端、その気持ちは更に強くなった。今日見たジュリアは、はっきり言って美しくはなかった。
目が落ち窪み、頬が痩け、体も異様に細く、酷い有様だった。性根の腐った者は、外見にも現れるのかもしれないと思った程だ。
まだ見た目が美しければ、普段しないような乱暴な抱き方で楽しめたかもしれないが、そんな気も起きない。
それに、あのドレス。
鮮やかなあの水色のドレスが、ガウスの神経を逆撫でした。
まだジャンの死を知らないのかと思ったら、そうではなさそうだ。
それなのに、あの色。
血の繋がっていない自分ですら喪に服する気持ちがあるというのに、ジュリアはその気持ちがないのかと、すっと気持ちが冷えるのを感じた。
ガウスはジュリアに初めて相見えたその足で書斎へと向かい、感情のままに離縁状にサインをした。
この離縁状は、マルタが用意したものだった。悪女と名高いジュリアを娶るガウスを心配し、早々に教会に受け取りに行っていた。
そんなマルタに、当初ガウスは流石に気が早いと思っていたが、ジョシュアの手紙を読み気が変わった。そして今日初めてジュリアと会い、行動に移したのだった。
ガウスは離婚届にサインをすると、スチュアートに預け教会に届けさせた。
離縁状には当主のサインさえあれば、妻の体を調べれば受理される。
3年後にジュリアを教会に連れて行けば、離婚が成立する。
あとは時を待つだけだった。
だがガウスは悩んでいた。
家のことをさせるつもりは毛頭ないが、かといって家で遊ばせておくのも気に入らない。
ジョシュアの言うように家から追い出すことも考えたが、それでは結婚した意味がまるでない。少なからず家に妻がいる状態が一定期間なければ、また周りから口煩く言われるだけだ。
だが、ただジュリアを家に置いておくだけでは、出費が増えただけで本当にただの負債だ。
確かにあのコンテナ男爵に貸しを作ったというのは大きいが、ガウスは懐に入れた人物に対して情け深い。自分が優位に立つ取引など、持ちかけるつもりはさらさらなかった。
すると、これまでと大きくは状況が変わらない。
以前ジョシュアから、ジュリアの商才はなかなかなものだと聞いていた。
当然、商会の経営に関わらせる信用はありもしないが、雑用くらいならやらせてもいいかもしれない。
「ガウス様?どうなさいましたか?」
「いや、何でもない。もう一度するぞ」
「あっもうガウス様ったら」
ガウスは鬱憤が溜まっていた。
エマを組み敷きながら、ガウスは考える。
明日、ジュリアを商会へ連れて行こう。少しは働いて役に立ってもらわねばならない。
ガウスは、まさか自分がジュリアに嫌われているなどと考えていなかった。自分が女性から求められないことがあるなど、発想すらない。
だから、自分が触れないことがジュリアにとって辛いことで、愛されないことが何よりの罰だと考えていた。
まさかそれがジュリアにとって幸運なことだとは、露ほども思っていなかった。
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