第11話

 

 結局その日、ジュリアは夕食を食べ損ねた。

 それから誰もジュリアの部屋に来ず、ジュリア自身もいつの間にか眠ってしまったから。

 時刻は未明。まだ外は暗闇に包まれている。

 朝食にはまだ時間がある。

 ジュリアは激しい空腹を覚えた。

 考えてみれば宿を出てから3日、軽くパンを摘むくらいで、ろくに食べていない。

 だからこそ自分の感情をコントロールできないし、まともな思考が生まれないのだとジュリアは考えた。



 ジュリアはそぅっと部屋を抜き出し、厨房へと向かった。

 貴族の娘にとって、使用人に起こされるより前に動き出すのははしたないことだ。けれど幼い頃はよく部屋を抜け出し、メイドに叱られたものだ。

 その内、こっそりと歩くことが得意になった。まさかそんな要らない技術が、こんな所で役に立つとは思わなかった。


 厨房の中に入ると、そこには豊富な食材が用意されていた。鍋にはスープが湯気を立てており、いい匂いが厨房に漂っている。

 コックが朝食のために用意したものだろう。

 ジュリアは思わず唾を飲み込んだ。

 これまで忘れていた食欲を一気に思い出したような気分だ。

 しかし何か食べるものが残っていないかと来てみたものの、いざ食材を前にすると罪悪感がある。


(これ……食べてしまうとコックが困るかしら。そうよね……これから使おうとしているものだもの……)


 ジュリアは食欲と理性の狭間で葛藤していた。

 すると、勝手口の方から音がした。

 コックかと思い振り返ると、意外にも昨日見た庭師だった。

 部屋が暗く良く見えないが、相変わらずふわふわの茶色い髪をはねさせている。

 そして、遠目で見た印象よりも、ずっと整った顔をしていた。


「あれ。もしかしてここの奥様ですか? こんなところでどうなさったんです?」


 庭師は最初驚いたような顔をしたが、すぐに人好きのするにこやか笑顔になった。


「ちょっと、お腹が減ったものだから……何か食べようと来たのよ」

「そうなんですか。あ、じゃあこれ食べます? ここのもの食べたら親父さんに怒られるから」


 そう言って庭師は肩から下げていた鞄の中から、紙包みを取り出した。

 どうやら中身はサンドイッチのようだ。


「あ、すみません……。奥様がこんなもの食べる訳ないか。あーそうかまず自己紹介ですね。遅くなりました。俺は時々このお屋敷に通いで来てる庭師のビルです」

「やはり通いで来ているのね。ここにいる使用人の中で庭師が居るとは聞いていなかったものだから」

「毎日来ている訳じゃないですし、ここにも部屋はないですから。どうしても昨日中に手入れをしないと間に合わない花があったんですが、片付けしてたらすっかり遅くなっちゃって。この厨房の親父さんの部屋で仮眠させてもらってたんですよ」

「なるほど、そうなのね。ところで、あの、そのサンドイッチなのだけれど……本当に貰ってもいいのかしら?」

「え? ああもちろんですよ。こんなもので良かったら、どうぞ」

「ありがとう! とても嬉しいわ!」


 ジュリアはサンドイッチを受け取ると、夢中でかぶりついた。

 と言っても貴族令嬢らしくお淑やかに大口を開けずにちまちまとではあるが。

 これは最早無意識だ。

 ハムとチーズを挟んだシンプルなサンドイッチは、とても美味しかった。

 ジュリアは無言で食べ続け、多少お腹が満たされた所で、ふうっと息をついた。


「っごめんなさい、私ったら夢中で……。あ、もしかしてこれはあなたの朝食だったのではなくて? ごめんなさい!」

「ははは。いやいや気にしないでください。夜食に持ってきたんですが、食べる暇がなかったので大丈夫ですよ。随分美味しそうに食べてましたね。そんなにお腹が減ってたんですか?」

「ええ……そうね。もうかれこれ3日まともに食べていなかったわ……」

「そんなに!? また一体どうして……」


 2人で話してると、入り口の方からコックらしき男が顔を見せた。

 ジュリアの父と同じくらいの年齢に見える、白金の髪の男だ。顎には無精髭を生やしており、体格も、そして顔もいかつい。

 手には卵の入った籠を持っている。卵を手に入れてきたのだろうか。

 ジュリアはまずいと思った。

 この家の者に男と2人でいるところなど見られたら、あらぬ疑いをかけるかもしれない。


「違うのよ! 私お腹が空いてこちらに来たら、たまたま彼がいてそれで」

「親父さーん。またそんな怖い顔して。奥様が怖がってるじゃないか」

「む……そんなつもりは。奥様、ここでコックをしているトビーです。よろしくお願いします」


 トビーと名乗ったそのコックは、淡々と抑揚のない低音で話す。

 あまり話すのは得意でないのかという印象を受ける。

 それにしても、どうにも顔がいかめしい。怖くはないが、不機嫌なように感じる。


「ジュリアよ。よろしくね。ごめんなさい、どうしてもお腹が空いてしまって、朝食まで待てなかったのよ」

「……昨晩もお召し上がりになりませんでしから。今から何か作りましょうか」

「いえ、今ビルにサンドイッチを頂いたから……」

「おいビル。奥様に何食わせてんだ」

「だ、大丈夫だよ昨晩作ったばっかで別に傷んでるとかしてないし! 奥様、親父さん顔怖いけど別に不機嫌なわけじゃないですよ。今は俺に怒ってるけど!」

「…………」

「うわー! その顔で睨まないで怖いよ!」


 ビルは顔の前に両腕を持ってきて顔を庇うようにしている。

 ジュリアはくすくす笑った。


「2人とも仲が良いのね」

「……いや、別に」

「俺いつも仕事の休憩時間はここに来て、余り物食べさせてもらってるんです! 親父さんの料理は本当に絶品ですよ! 今も仕事終わりに一服しようかなーって来たんですよね」

「お前、ここで油売るな」

「いいじゃん! ケチだなー親父さんは!」


 2人の掛け合いが面白く、ジュリアはまたくすりと笑った。

 すると、ぐーっつと腹の虫が鳴く音が聞こえた。

 ジュリアの空っぽの胃袋には、サンドイッチ一つでは足りなかったようだ。


「ご、ごめんなさい」


 ジュリアは顔を真っ赤にして俯いた。


「そりゃ3日もまともに食べてなきゃ当然ですよ。あれじゃ足りなかったでしょう」

「っ……。奥様、やっぱり今から作ります。オムレツとスープで大丈夫ですか」

「ええ……ありがとう」


 するとトビーは見た目に反した機敏な動きで竈に火をかけ、調理をしていった。

 バターが溶けるいい匂いがする。

 あっという間に、目の前には綺麗な形のオムレツと野菜スープが置かれていた。


「あまり食べていなかったのであれば、どうかスープから。胃がびっくりしないように」

「ありがとう。いただくわ」


 ジュリアは一口スープを救って口に含むと、驚きで目を見開いた。


「美味しい! こんなに美味しいスープ、生まれて初めて食べたわ!」


 ジュリアは至福の思いでスプーンを進めた。

 オムレツの方も絶品で、ジュリアはあっという間に完食してしまった。


「とても美味しかったわ。ごちそうさま」

「良かった。お口に合ったようで」


 ジュリアは満足してナプキンで口を拭うと、ビルにじっと見られていることに気づいた。

 相変わらず笑顔でいるのだが、どうもニヤニヤしている気がする。

 食い意地の張ったところを見られて、恥ずかしい気持ちになった。


「……奥様。マルタはあなたに失礼なことをしていませんか」


 ジュリアが羞恥心を抑えていると、トビーがボソリと言った。


「それは、どういうこと?」

「マルタは俺の妻です。そして、坊ちゃん……ガウス様の乳母だった。俺たちにも息子がいたんですが……病で亡くなってしまって。マルタは息子の代わりに坊ちゃんを溺愛しているんです。

 あなたの話は俺も聞いたが……どうにも腑に落ちない。何より今目の前にいる奥様と聞いた話は結びつかない。けれどマルタはあの話を信じ切っている。だから……申し訳ありません。代わりに俺から謝罪を」

「そう……なるほどね。一つ謎が解けたわ。いいえ、あなたが謝るようなことでもないわ。それにメイド長だけの責任でもない」


 ジュリアは席を立ち上がると、食器を流しに片付けた。


「それは俺が……」

「いいの。私が勝手に食べにきただけなのだもの、これくらいはね。また、ここに来てもいいかしら」

「それは、もちろん」

「……ありがとう。噂だけじゃなくて、私自身を見てくれて」


 そう言ってジュリアは、ドレスをパンパンと払う。


「さて、そろそろ戻らないと。カンナが部屋に来て私がいなかったら、また何を言われるかわかったものじゃないわ」

「よし、じゃあ俺ももう帰るよ。次は3日後かな。じゃあな親父さん。奥様、またお話ししましょうね!」


 ビルはそう言って、笑顔で勝手口から出て行った。


 ジュリアは部屋へと急ぐ。

 厨房は1階のため、また階段で3階まで上がらなくてはいけない。

 もう空は白んでいる。

 急足で階段を登っていると、2階の南棟から東棟へと向かう人影が見えた。

 どうやら昨日の黒髪のメイドのようだ。

 薄い透けるような生地のドレスの上にガウンを来て小走りに駆けて行った。

 2階の南棟には、ガウスの寝室と執務室以外は空き部屋のはずだ。

 つまり、状況から考えれば彼女はガウスの寝室から出て来て自室へと帰ったのだろう。


(……そういえば、昨日は私たちの初夜だったのかしら。私も寝ていたし、ガウス様が来た痕跡もないけれど。それでいて、彼女を招いていたのね。……せっかく上向いていた気分が台無しだわ)


 ジュリアは急降下した気分を持て余しながら、自室へと急いだ。

 沈んだ気持ちが、幾分か歩みを遅くさせていた。

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