第9話

 コンコンとノックの音が聞こえ、ジュリアは部屋の入口を振り返った。

 すると、メイド服を着た2人の女性が入ってくる。ジュリアの母ほどの年齢の女性と、先程すれ違った2人とは異なる若いメイドだ。

 この2人が、メイド長と残りの1人なのだろう。


「奥様。ご挨拶が遅くなりました。私がメイド長をしているマルタと申します。そしてこちらがカンナ。本日から奥様付きになります」

「カンナと申します。よろしくお願いします」


 カンナと紹介されたメイドは、くすんだ茶色の髪に茶色の目、そして頬にそばかすが散った平凡な容姿だ。しかし、くりくりと大きな瞳が可愛らしい印象を与えている。

 年はジュリアよりも幾分か若いだろうか。

 成人しているかいないか微妙な頃合いだ。

 2人とも口調は丁寧だが、ジュリアの特技を使うまでもなく、明らかに警戒心と敵対心を持っているのを感じる。

 特にマルタと名乗ったメイド長からは、どこかジュリアを値踏みするような鋭い視線を感じた。


「ガウス様はとてもお忙しい身。本日の夜までこちらに帰ってこられません。それまでゆっくりお休みくださいませ。まずは……そうですね。ご入浴なされるのがよろしいかと。カンナ、準備を」

「はい」


 カンナは浴室へと入って行った。

 マルタと2人になったジュリアは息が詰まる心地だった。


「それで、私はここでどんな仕事をすればいいかしら。

 何も持たずに身一つできてしまったのだもの。許される限りの働きはするわ。

 屋敷の女主人のお仕事は……させてもらえるのかしら?」

「詳しくはガウス様がお帰りになられたらお話になります。ガウス様にお聞きください」


 マルタは突き放すようにそう告げる。

 ジュリアか吐きそうになった溜息を既の所で飲み込んだ時、カンナが準備ができたと浴室から出てきた。


 マルタは無言で会釈をし、部屋を出て行った。


 いかにも不本意だという様子で入浴を手伝おうとするカンナを制し、ジュリアは1人で浴室に入る。

 バスタブの湯が張られ、石鹸のいい香りがする。湯は直接この浴室の蛇口から出るようだ。これは平民の邸宅ではとても珍しい。さすがクルメル商会のウォルナット家というところだろう。

 ヘアオイルやタオル、着替えなど必要なものは一通り準備されており、ジュリアはホッと息を吐いた。


 ジュリアは丁寧に指輪とネックレスを外し、全身を念入りに洗うと、ゆっくりと湯に浸かり、目を閉じた。

 今まで不自然に凪いでいた心が騒ぎ出す。

 母はどうしているだろう。心労で倒れたと聞いた。母はとても大らかで、いつもにこやかに微笑んでいる人だった。

 そして、父を、兄を、私を心から愛していた。

「あなたたち家族が、私の宝物」が口癖だった。今のこの状況に、どれ程心を痛めているだろう。

 兄に捨てられるかもしれないが、ダメ元で手紙を出してみようか。

 父は、一体どういう気持ちで海に沈んでいったのだろう。私のことをどう思っていたのだろう。本当に、兄の言うことを信じて、私を愚かな娘だと恨んだだろうか。

 けれどもう、弁解も説明も出来ない。

 父はなぜ死ななければならなかったのか。

 そして、兄。

 一体何があんなにも兄を変えてしまったのだろう。

 実はメイプル男爵令嬢は何も関係なく、私自身に兄を憤怒させる何かがあったのだろうか。

 私はもっと他に、何か出来ただろうか。考えれば考えるほど、あらゆることが出来たような気がしてくる。


 ジュリアは目を閉じ、膝を抱えて湯の中で涙を流し続けた。


ジュリアに用意されていた服は、一般的な貴族令嬢の室内着よりも若干グレードの落ちるサマードレスで、夏らしい鮮やかな水色だった。

 普通だったら喜ぶ色合いだが、今はとてもそんな気になれない。

 父が亡くなったばかりなのだ。やはりドレスは黒がいい。

 それに、サイズが明らかにジュリアより大きい。服を変えてもらった方が良さそうだ。

 サマードレスは後ろを紐で編み上げているもので、自分一人では着られない仕様になっている。

 仕方なく、ジュリアは自分で着られる所まで着てから、浴室を出た。


「ねえカンナ。お願いがあるのだけど、ドレスを別の物にしてくれないかしら。黒色で、自分一人で着られる物がいいわ。あともう少し小さいサイズはないかしら。ないのであれば、仕方ないけれど」


 カンナはちっと舌打ちをした。

 流石にこの態度は使用人としてどうなのかと思い、注意しようとジュリアが口を開きかけた時、カンナの方が先に言葉を発した。


「それは体裁を取り繕いたいということですか?」

「え?」


 ジュリアはカンナの言っていることがさっぱり理解できなかった。

 ドレスの変更を頼むことが、一体何の体裁を取り繕うことになるのか。


「だって、あんたが喪に服すのはおかしいもの。あんたのせいじゃない」


 カンナはそう吐き捨てる。


 成る程、彼女は既にジュリアの父の死を知っているようだ。そして何某か、アルガの所長が言っていたようなことを、聞かされているに違いない。


「いえ、それは違うの」

「それともガウス様の色を身につけて媚を売ろうと言うことですか? 生憎、どう見てもあなたはガウス様の好みじゃない。とっととそれを着なさい!」


 そう言ってカンナは無理矢理にジュリアの背後に回ると、ぎゅっと編み上げを締め上げた。


「痛い! 何をするの!」

「あんたなんて! 婚約破棄された傷物の性悪のくせに! しかも生粋の貴族のお嬢様ですらないくせに! 何であんたなんかがガウス様の妻になるのよ!」


 カンナはそう叫ぶと、ドレスの紐を乱暴に結んでジュリアを突き飛ばし、きっと睨みつけた。

 ジュリアはたたらを踏んだがどうにか踏みとどまり、驚いてカンナの方を振り返った。

 カンナはくりくりした大きな目をきっと釣り上げ、ジュリアに敵対心を剥き出しにしている。

 最初は辛うじて使っていた敬語も、剥がれ落ちてしまっている、




「あなた……ガウス様のことが好きなのね?」

「っ……!」


 カンナは皮膚が裂けそうなほど唇を噛み締め、目に涙を溜めている。

 ジュリアは理解した。

 彼女が自分を厭うのは、ジュリアの評判だけでなく、ガウスへの恋心故なのだろう。


「あんたに教えてあげる! ここの家の若いメイドはみんな、ガウス様の愛人よ! エマもルーナも、ガウス様が家に帰られた時は日替わりで寝室に呼ばれるんだから! あんたなんか、ただのお飾りなのよ!」


 そう叫ぶと、カンナは部屋から飛び出していった。

 ジュリアは呆然とそれを眺め、溜息を吐いた。

 ドレスはこのままで居るしかなさそうだ。



 それにしても、ただでさえ頭が破裂しそうなのに、また厄介なことを聞いてしまった。

 エマとルーナというのは、先程廊下ですれ違ったメイドのことだろう。

 ジュリアは、はぁっとため息を吐いた。


(彼女の言っていることが本当かどうかは分からないけれど、ガウス様なら十分にあり得るわ。だとしたらやっぱりガウス様は最低ね。見目は確かに悪くなかったけれど……好きになれそうにないわ)



 ジュリアはかつて会ったことのあるガウスを思い出す。

 最後にガウスと会ったのは、ジュリアが10歳を超えたかどうかという頃だろうか。

 ガウスはジョシュアの1つ上に当たる。当時ガウスは17、8の青年だった。

 黒い髪を短く切り、背が高く、鍛えているのかがっしりとした体。金の瞳が印象的だった。

 ただ外見だけを見ていたのなら、ジュリアとて嫌悪することはなかっただろう。


 しかし、彼はとにかく女性関係が派手だった。

 自分の好みと見ればそれが婚約者がいようが既婚者だろうが見境なくアプローチする。実際、見た目がいいことと、交際中のガウスは女性に丁寧なようで、非常にモテていたのも確かだ。

 4股5股というのもざらで、幼い頃からジュリアは必要以上にガウスに近寄ることを避けていた。


 商人としては優秀で、早くに両親を亡くし若くしてクルメル商会の会頭になったが、部下を纏める力もあるようだ。だがすぐに職員の女性に手を出し問題となる為、クルメル商会には現在年頃の女性はいないと聞いた。

 遊びで付き合うつもりの女性はいいのかもしれないが、正直夫にするには最も適さない部類の男だろう。

 そんな男が、8年経ちどうなっているのかと想像すると、ジュリアは身震いする思いだった。


(お兄様……私がガウス様を毛嫌いしていることを知っていて、敢えて結婚相手に選んだに違いないわ。一体、お兄様の何がそこまでさせるのかしら……)


 ジュリアは、ぽすんとベッドの縁に腰掛けた。


(でも、私はもうここでやっていくしかない。ここでやっていけるように、まずは努力しよう。全てはそれから。もしも、どうしてもダメだと思ったら……何か方法を考えなければ)


 顎に手を当て、ジュリアは考える。

 カンナの言うようにガウスに媚びを売るつもりはないが、良好な関係を築けるならそれに越したことはない。

 幼い頃の印象と噂話で判断せず、ガウスときちんと向き合う努力をすべきだとジュリアは考えた。


(そんなもの、ここの人たちの私に対する態度と同じだわ。きちんとガウス様その人を見なければ)


 ジュリアは強く頷き、自分に言い聞かせる。

 ベッドから立ち上がり、窓辺に立つ。

 窓の外を見てみたけれど、あの庭師はもう居ないようだった。

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