第8話

 

 アルガの街から、更に1日。



 ジュリアは1人、門の前に立っていた。


 御者に無理を言って、夜道も馬車を走らせてもらい、翌日の昼前にはウォルナット家の邸宅に着いた。

 礼として、船乗りの男から預かった路銀を少し御者に渡して別れた。




(今日からここが、私の家なのね)


 ここに来る道中。

 これまでのあらゆることが頭を駆け巡り、嵐が吹き荒れる胸を抱えてここまで来た。

 もはや、今はいっそ心は凪いでいた。

 いや、あまりに傷付きすぎて、もう何も感じなくなったと言うべきか。


(どこに居たって、もう同じことよ。帰る場所は、もうないのだから)


 そしてジュリアは、何の感慨もなく、門を叩いた。

 あるのは、父を失った静かな悲しみ。

 母と兄、そしてマルセルを案ずる気持ちだけだった。




 ホルツ王国の王都には、南北に運河が走っている。

 王宮はこの運河の西隣に位置し、運河に並行に南へと目抜き通りが作られている。

 クルメル商会は、この目抜き通り沿いに事務所を構えており、これは実力ある商会の証だ。

 ウォルナット家の邸宅は、目抜き通りから運河を渡った橋の袂にあった。マホガニー家ほどではないものの、それなりに立派な門構えだ。

 ジュリアは商会でしかガウスに会ったことがなかった為、邸宅には初めて来た。

 運河に沿うように作られた道と、橋から続く道が交差する角にあり、扇形に作られた建物の中心角の部分に門がある。

 そのすぐ奥、5段ほど階段を登った所に玄関が見える。

 高級住宅街なのか周囲の家々も立派なものだが、ウォルナット家の邸宅は3階建てで、特に大きい。

 他の家にはあまり見当たらないが、ウォルナット家の門の前には門番が1人立哨りっしょうしていた。



「もし。私ジュリア・マホガニー……いえ、ジュリア・ウォルナットですわ。当主のガウス・ウォルナット様に取り次いでいただける?」


 ジュリアは門番に声を掛けた。

 すると門番は怪訝な顔をし、ジュリアを上から下まで観察するように眺める。


「ああ? 何だあんた。もしやガウス様の遊び相手の1人か? 帰れ帰れ。一応ガウス様には奥様が出来たんだよ。知らないのか?」

「いいえ……私がその奥様なのですわ。今日からお世話になるのです」

「はは! 嘘ならもっと上手く吐きな! 奥様はあのティンバー王国のお貴族様だぞ! こんな小汚い女な訳ないだろう!」



 そう言われて、ジュリアは改めて自身を顧みる。

 この一週間洗われていないドレスは酷く汚れ、至る所に土が付いている。そして風呂にも入っていない。泊まったのは安宿だったため、風呂がなかった。

 ジュリアはこの一週間、湯に浸した布で拭う以外のことをしていなかった。

 食事もほとんど食べていない。

 元々心労が祟ってやつれていたのもあり、鏡を見ないと分からないが、相当な酷さなのだろう。


「……あの、これを見ていただける? この指輪はマホガニー家の紋章よ。あなたも見たことがあるのではないかしら?」



 マホガニー家の紋章は、センダン商会で扱う商品の外装にも印字している。

 そのためセンダン商会の商品が数多く流通するホルツ王国では、見たことがない人間の方が少ない。

 門番はその指輪見ると、慌てて屋敷の中に駆けて行った。


 しばらくその場で待つと、玄関から執事らしき年配の男が降りてきた。

 グレーの髪を全て後ろに撫でつけ、左眼にモノクルを掛けている。後ろには先程の門番が付いていた。


「これはこれは。奥様。遅いお着きで御座いましたね」


 執事らしき男は表情を動かさず言う。

 随分と不遜な態度だ。

 確かに普通であれば2日前には着いていていい。

 ジュリアは素直に謝罪することにした。


「嵐のせいで街道が塞がって立ち往生してしまったのよ。一応そう連絡を入れたのだけれど……待たせてしまい申し訳なかったわ。ガウス様にも、そうお伝えしたいの。ガウス様は今どこ?」

「……ご主人様は今商会の方にいらっしゃいます。とりあえず、奥様は邸宅の中へ。旅の汚れを落としてくださいませ」

「……ええ……そうね。そうするわ」



 ジュリアは執事に付いて門を潜り、階段を上がる。

 しかし、随分と歩みが早い。

 ジュリアは本来走り回るのが好きな質のためそこまで苦でもないが、普通の御令嬢はきっと付いていくのは大変だろう。


(やっぱり……お兄様から何か聞いているのね。明らかに歓迎されていないわ)


 それは邸宅の中に入っても同じことだった。

 通常、貴族の娘が嫁ぐ場合には使用人が総出で出迎え、当然当主たるガウスも迎えるものだ。

 しかしエントランスホールはがらんとしている。

 確かに嵐のせいで予定より遅くなったのは確かだが、宿から手紙は出していたのだ。準備が出来なかった訳ではあるまい。



 邸宅の中を歩きながら、スチュアートと名乗る執事からこの家のことを聞いた。

 使用人はスチュアートを入れて6人。

 メイド長とメイドが3人、あとはコックだ。

 表からは分からなかったが、扇形の邸宅の弧の部分が一部削られ、太いVの形になっており、その削られた部分に中庭があるようだ。

 それぞれ運河沿いに立つのを南棟、橋から続く道沿いに立つのを東棟と呼ぶらしい。東棟は主に使用人の自室や作業部屋があり、南棟はウォルナット家のプライベートルームや客間があるようだ。


 廊下を進むと件のメイドと思しき2人とすれ違う。

 どちらもジュリアより少しだけ上に見える、若い娘だ。

 2人は一応形ばかりに頭を下げるが、通り過ぎると後ろからこそこそと話し声が聞こえ、明らかに嘲りを含んだ笑い声が聞こえる。

 随分と質の悪い使用人だ。


(まあ……この姿では、仕方ないかもしれないけれどね)


 ジュリアは自嘲した。

 窓ガラスに映った自分の予想以上の姿に、溜息が漏れる。

 汚れも酷いが、思った以上にやつれ方が酷い。

 マホガニー家にいた時も、このひと月ほどはずっと食欲がなく、細くなっていた自覚はあるが、この一週間でより酷さが増している。

 まさに幽鬼のようとはこのことだった。



 スチュアートに案内されたのは、南棟の3階の端、庭に面した部屋だった。

 ガウスの自室は2階だと聞いたため、明らかにこの家の妻の部屋ではない。

 調度から考えて、客間のようだ。

 入ってすぐにベットがあり、入り口の正面とベットの脇に窓がある。

 ベットの脇の窓の前には、小さめの書き物机が設置されていた。

 左手は浴室に繋がっているようだ。

 通常、妻の部屋にあるはずのクローゼットルームはなく、右手に大きめのワードローブがあるのみだ。


(部屋は何でも別にいいけれど。できれば運河に面した部屋が良かったわ。船が見えるし)


 ジュリアは一つ息を吐くと、窓に近寄って中庭を見下ろした。

 すると、1人の庭師が花の植え替えをしているところだった。


(庭師がいるとは言っていなかったけれど……通いの庭師なのかしら)


 ジュリアがしばしぼーっと作業を見つめていると、ふと庭師がジュリアの部屋を見上げ、目があった。

 庭師は立ち上がると、帽子を脱いでお辞儀をした。

 先程まで顔が見えず、てっきり年配の男性かと思ったら、思ったよりも若い男のようだ。

 茶髪のふわふわした髪が、帽子を被っていたためにあちこちにはねているのが遠目からでも分かる。

 ジュリアは何だかおかしくなって、小さく笑みをこぼした。



 

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