第6話


「お嬢、出てくれ。若の命令なんだ」


 船が着岸すると、船乗りの1人がジュリアにそう声をかけた。

 30代半ばくらいだろうか。頭にバンダナを巻き、無精髭を生やした浅黒い男だった。ジュリアも何度か、ジョシュアの近くで見たことのある顔だ。

 船は波が高かったのか、酷く揺れた。

 そのため食欲も湧かず、僅かに出された食事もさして手がつけられなかったため、足元がふらつく。男はジュリアを支え、港に待機させていた馬車まで連れて行った。

 船での対応を考えるともっと粗末なものを想像していたが、思ったよりも快適そうな馬車だった。


 食物庫には窓が無い。

 用を足す以外で食物庫から出ることのなかったジュリアは、空を見上げた。

 3日ぶりに見る空は、黒々とした雲が敷き詰められ、今にも雨が降ってきそうだった。


「会頭が帰ってきたら、きっとどうにかなる。若は、おかしくなってるんだ。出来るだけ遠回りする道で行くよう伝えてある。しばらくの辛抱だぞ」


 船乗りの男がそう声を掛けた。

 ジュリアを連れて行くのは、男の本意ではないのだろう。どこか傷ましそうな顔をしている。

 ジュリアは、その言葉に勇気付けられた。

 そうだ。両親が帰ってくれば、この異常な状況に気付き、どうにかしてくれるだろう。

 このまま逃げてしまうという手も考えられるが、ジュリアには出来なかった。

 あくまでガウスとの婚姻は正式に取り交わされたものなのだ。ジュリアもジョシュアに見せられ、書類を確認した。

 この婚姻は契約だ。それも正式な。

 商人にとって契約書は命の次に大事なもの。

 正式に交わされた契約は、正式に破棄する必要がある。

 ここは時間を稼ぎ、当主であるジャンが、この婚姻を取り消す他ない。


 ジュリアが男に御礼を言うと、男はじゃらりと音がする麻袋をこっそり手渡してしきた。

 どうやら路銀が入っているようだ。

 ジュリアは自室から何の荷物も持たずに船に乗せられたため、正直有難かった。


「後で必ず返すわ。お願い、名前を教えて」

「そんなことはいい。だから、どうか達者で」


 男はそう言うと、さっと船に引き返してしまった。

 ジュリアは男に頭を下げ、馬車へと乗り込む。

 男は船の上から、その姿をじっと見ていた。





 ガウス・ウォルナットの邸宅は、ラシーヌの港から馬車で2日ほどの王都にある。

 港の側で育ったジュリアには違和感があったが、ガウスのクルメル商会は港の運営に関わっている訳ではない。港から離れていても特に支障はないのだろう。


 馬車はゆっくりと街道を進み、しばらくするとやはりポツポツと雨が降ってきた。

 そしてやがて強風が吹き荒れ、激しい雨が降り始めた。


「お嬢さん! こりゃあ馬車を進めるのは無理だ! 嵐が収まるまでこの街で待機しやす!」

「分かったわ。急ぐ旅でもないもの。もう夕方だし、今日はこの街に泊まることにするわ。ご苦労様」


 ジュリアは船乗りの男から預かった路銀を使い、街で庶民に人気だと御者に教えてもらった安宿に泊まることにした。

 麻袋を開くと、かなりの額が入っており、必ず男に返すことを誓う。

 これだけの額があればもっと良い宿にも泊まれるだろうが、今後の見通しもない中で手持ちは少しでも多い方がいい。


 マホガニー家では何人も使用人を雇っているが、ジュリアには専属の侍女は付いていなかった。

 元々平民だった為にある程度のことは幼くとも自分で出来ていたし、着飾る時はそれぞれ得意なメイドたちに任せれば良い。

 ジュリア自身が必要性を感じていなかった。


(それが、こんな所で役に立つなんて。エミリア様がこの状況になっていたら大変だったわ)


 下を向けば、室内着であったため簡素ではあるものの、庶民が着るには質が良すぎるドレス。ジュリアは御者に借りたボロボロのローブでドレスを隠し、宿の部屋に入る。

 念のため、護衛代わりに御者には隣の部屋に泊まってもらうことにした。

 窓から見た景色は、まるで神が大地の大掃除をしているのかと思えるほど、風が吹き荒れていた。


(ティンバーはあまり嵐がなかったけれど、ホルツは違うと聞くわ。海の上はどこまで荒れているのかしら。お父様とお母様は……無事に家に辿り着けたかしら)


 予定では、両親は今日の昼頃帰宅するはずだった。通常ならもう家に着いているはずだ。


(きっと、きっと大丈夫よ。全て元通りになるわ。

 お兄様も、もし薬を使われているのなら早くしないと取り返しのつかないことになるかもしれない。

 お父様、お母様。どうか早く手紙を読んで)


 ジュリアは自室に軟禁されている間、これまでの経過と調べたことを報告する手紙を書いていた。

 それを信頼できるメイドに預け、両親が帰ってきたら渡すよう伝えてあった。

 きっと今頃、両親は手紙を読んでいることだろう。

 ジャンのことだから、既にもう動き始めているかもしれない。

 ジュリアの胸に希望が宿った。


 途端、激しい空腹を覚える。

 この宿の一階は食堂になっていたはずだ。

 ジュリアはそこで軽く何か食べることにした。


(現金なものね。まだ何も解決はしていないのに)


 ジュリアは階段を降り、食堂の隅の席に小さくなって座った。

 貴族令嬢だとバレるのではないかとハラハラしたが、まだ港に近い街で国籍問わず様々な人の出入りがある。誰もジュリアに注意を払わなかった。

 ジュリアは名物だという魚介のスープパスタを頼んだ。センダン商会でもよく扱っているハーブが効いていて、とても美味しい。


「なあ。聞いたか、センダン商会のこと。とんでもないことになっているらしいぞ」


 ジュリアのことにはこれっぽっちも気付かずに、近くで商人らしき男たちが話している声が聞こえた。

 思わずジュリアは耳をそば立てる。


「あのマホガニー家の若が、1人の女に入れ上げてるんだってよ」

「そんな訳ないだろう。あの真面目が取り柄の若だろう? 父親ぐらいの遊び心も必要だって皆んな言ってたじゃないか」

「いや、でもな。ソルムの港で見た奴が居るんだよ。若の想い人をいじめただなんだって女をさ、無理矢理この国行きの船に乗せてたんだと」

「本当か? あの温厚な若をそんなに怒らせるなんて、その女よっぽどのことをしたのかねぇ」

「女は怖いからなぁ」


 ジュリアはそれ以上聞いていられず、スープパスタを半分以上残して席を立った。

 先程までお腹がペコペコだったのに、もう食欲が湧かない。


(明日、アルガの街に向かおう。今は飛べないだろうけれど、着く頃には鳩が来ているかもしれないわ)


 ジュリアはこれまでのことではなく、これからのことに意識を集中させる。

 今は泣いている場合じゃない。


 ジュリアはラシーヌの港に着いた時から、センダン商会のホルツ王国での事業拠点であるアルガの街に寄ることを決めていた。

 ラシーヌからウォルナット家の邸宅に向かうには遠回りになるが、真逆ということもない。

 アルガにはセンダン商会の事業所の一つがあり、そこには鳩舎が設けられている。ティンバー王国の事務所との伝達には伝書鳩が使われているのだ。

 ソルムとラシーヌの港にもそれぞれセンダン商会所有の鳩舎があり、各港を経由して連絡を取ることが可能だ。

 もしもジャンが何らかの連絡をしているならば、アルガの事業所に来ているだろうと踏んだのだ。


 明日からの計画を立て、ジュリアは部屋で眠りに付いた。



 けれど翌日、ジュリアの計画は水の泡になってしまった。

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