僥倖
満天の星空を偲ぶのが僥倖であった。
遠い空、太陽の下にて、一人の気楽そうな男が云う。俺は星空が好きだった。好きだった。それは過去形である。君が好きだと言うならば、月もまた綺麗と言うべきか。或いは君か。宝石箱の中身をぶち撒いたような細かな煌めきを愛していた。あの頃俺は一羽の小鳥を飼っていた。その名は。鳥というやつはビロードの輝きを羽に宿している。あいつもまた、星空であったのだろうか。小鳥は云う。私に青いペンキを塗って欲しい。そうすれば本当の星空にだってなってみせるさ。嘘つき。あぁでも、俺は星空を探したかったんだ。手に入る小さな、それでいて美しさはそのままの星空。ポケットに入るプラネタリウム。小鳥を親戚の者に預けて、俺は旅に出た。寂しいなんてことはない。いつだって星空と俺は共にあった。いや、本当は少しだけ。歩く、というのは過ぎ去ったことを振り払う行為でもある。何かから逃れたくて歩いていた。後ろ指を指されることを怖れて段々と歩くのが早くなった。彗星のようになりたかった。いくつかの出会いがあって、そんな中俺は何かに追われるような心地でいた。俺は俺か?あぁ、お前はお前だ。ならお前は?そりゃあ当然、俺もお前だ。ナンセンスなコピーキャット。
小鳥にペンキをかける。勿論青いペンキだ。
死にかけの幸運はもがいて逃れようとした。飛び立とうとして量産型の幸運を撒き散らした。ただでさえ弱っていた。半分白のままの羽毛が幾つか抜けて。ベタついた塗料の不自由さに全身を絡め取られて。幸運は死んでしまう。ごめんなさいと言った。誰に?誰だろう。殺してしまった幸運にだろうか。拙い閃きで星空に毒を混ぜてしまったことだろうか。つまりはあの男。それとも同類を殺された男の鳥だろうか。でも、もう遅いだろう。解らないことが多い世だった。
私は小鳥を土に埋める。
この幸運になれなかった生き物を、最後すらも私の手で。誰の手にも触れられないよう埋めてしまおうと。手製の十字架を立てて弔った。
それからある日、ふと思い立つ。あれが甦っていないだろうか。何しろ幸福の青い鳥だ。そうやって心中を誤魔化した。ただの鳥だ。
不死鳥の類いでもない。しかし、行ってみれば或いは。堪え切れずに家を飛び出した。そうして着けば。そこには穴が空いている。ほら!
だがよく見れば犬か何かの足跡がある。何度も捺し直した印鑑のように乱雑に。見るからに。つまり、鳥は掘り起こされただけなのだろう。探してみれば乱雑に捨て置かれた青と赤黒い土が混ざったようなそれが。犬も食わない幸運だとか。碌でなし。私は後悔した。浅く埋めてしまったこと。ペンキを塗ったこと。出来心で殺してしまったこと。今ここで、小鳥に触りたいという気がまるで起きないこと。そんな物に小鳥を貶めてしまったこと。罪悪感から目を背けていること。男を救う振りだけしたこと。
みんな私の罪に違いない。
それから何もしたくないと家に帰って、私は気づいた。
結局のところ、幸運は身近にあるものではなかったのだ。ただ、幸運に似せるしかなかった現実のあれこれが無意味に散らばっているだけだった。本当の理想は手に届かないものであるから。それは唯一の煌めきを放つ一等星になれたのだろう。
理想は過去に宿る。
過去は手に入らないから。
私は呟いた。
私も星空が好きだった。
亡き星空に、想いを馳せるのがきっと。
今の僥倖なのだろう。
青い小鳥を捕まえた子供達にはもう、なれないことなんざ解りきった話なのだから。だから、これは本当につまらない、偽の幸福すら掴めなかった大馬鹿者にとって僥倖に違いなかっただけのこと。
散り散り思考。 白雪工房 @yukiyukitsukumo
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