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 手に力を込めてしまえば一瞬。だが、短剣の扱いに一切慣れていない自分が、正確に自身の身体に剣先を突き立てる事が出来る可能性は限りなく低い。人間の肋骨を短剣で砕くには、大人の男性でも難しいという話を何かの本で読んだ記憶がある。


 失敗をしたら。万が一、生き延びてしまったら。

 その先を考えるとゾッとする。


 だが、逃れられない永遠の不安と、失敗する可能性のある自殺。天秤に掛けた際、何方に傾くかはもう分かっていた。


 失敗するリスクが低い部位で、確実に死を迎えられる方法。剣先を、胸元から首筋へと滑らせる。

 一思いに首元に刃を突き立てれば、そのまま息絶える事が出来るか。それとも、刃先で首筋を掻っ切ってしまった方が確実か。


 最早憑りつかれた様に、頭の中を埋め尽くす“死”の切望。


 残された時間は少ない。決行しても、直ぐに誰かに見つかってしまえば一命を取り留めてしまうかもしれない。その前に早く、実行しなければ。

 剣先を首筋に触れさせ、瞳を閉じた。最後瞳に映った光景は、変わらず私を見下ろす天使像。

 

 10、9、8、と心の中でカウントダウンを始める。

 残り時間が短くなるに連れて、柄を握る手に力が籠る。


 ああ、これで楽になれる。

 これで、不安も消える。

 これで、未来を心配しなくて済む。

 これで、幸せになれる。

 これで、これで、これで。


 ――これで、全てを終われる。


 3、2、1。手に籠った力が、最大に達した。

 首筋に触れた剣先が、私の喉を――



「――エルお嬢様!」



 その場に響いた、私の名を呼ぶ声。鼓動が跳ね上がり、思わず手に持っていた短剣から手を離してしまった。

 石の床と短剣がぶつかり合う騒音が響き渡り、思わずびくりと肩を震わせる。


「――なんで、なん、で」


 漸く決断できた死を逃してしまった惜しさと、死を選ぼうとしてしまった自身の行動に恐怖を感じ、身体が強く震え出す。


「――なんで、貴方が、此処にいるの」


 声の主は、私が心から信頼を置いているモーリスだった。

 私を見つけたのが他の誰でもない彼だったという事に安堵感を覚えながらも、錯乱状態にある私は冷静な判断をする事が出来ない。


「ちが、違う、私は、ただ、ただ、怖くて、ごめんなさい」


 黙って私を見つめる彼に、言い訳にもならない言葉を並べ立てる。

 何が違うのか。どうして彼に謝っているのか。何に対して謝っているのか。どんな言い訳をするつもりなのか。今の私には、分からない。だが、言葉は止まらず、瞳からは涙が溢れた。


 そんな私を、彼は責めようとはしなかった。

 ただ黙って私の近くに寄り、床に落ちた短剣を静かに拾い上げる。そして暫く様々な角度からその短剣を見つめ、気が済んだとでも言うように1人頷いて短剣を鞘に戻した。


「――これは、旦那様のコレクションの1つですね。骨董店で見つけたアンティーク品です。本物の短剣ですよ」


 天使像の掌の上に戻した彼が、ふふ、と微笑みを漏らす。


「なぜ、こんな物が此処に置かれているのでしょうか。使用人が勝手に持ち出してしまったのかもしれませんね。使用人の中に盗人が居るとは考えたくありませんが、きっとこの部屋なら主人が出入りする事が無いと知って此処に隠したのでしょう。犯人捜しをする必要がありそうです」


 普段通りの、穏やかな口調。鼻腔を抜ける彼の柔らかな香りに、徐々に落ち着きを取り戻していくのが分かる。

 だがそれでも、私の足はその場に根を生やしてしまったかの様に動かない。頬を伝い落ちていく涙も、身体の震えも、止まらないままだ。

 

「お嬢様は昔から好奇心旺盛で、少々落ち着きの無いお子様でした。テーブルの上に登ったり、無理矢理こじ開けた窓から身を乗り出して落ちそうになったり、書斎に籠ったきり出てこなくなってしまったり。それに、かくれんぼもお上手でしたね。この広い屋敷で、貴女様を見つけるのには非常に苦労しました」


 徐に、モーリスが私の肩に触れた。


「“あの時”と同じだ。もうこんなに、肩が冷えている」

 

 彼が私を腕の中に迎え、落ち着かせるように優しく背を撫でた。

 幼少期を思い出す、優しい手。小さな頃、よく転んでは泣いていた私を、彼は私が泣き止むまでこうして抱きしめて、背を撫でてくれていた。

 その時からずっと彼からしていた、香水とは少し違う、薔薇によく似た香り。それがとても落ち着く物で、不思議とその香りを嗅ぐと心を落ち着かせる事が出来た。

 年を重ねる毎に、こうして抱きしめて貰う機会は減ったが、それでもその時の感触は今でもよく覚えている。そして、懐かしい感触に再び涙が溢れた。


「ホットミルクでもお持ちしましょう」


 ぽんぽんと、彼の手が背を叩く。まるで小さな子供をあやすような手に、思わず笑みが零れた。


「それを飲めば、自然と眠りにつくことが出来ますよ」


 私を抱きしめていた彼の手が、ゆっくりと離れた。名残惜しさを感じながらも、それに合わせ漸く動いた足で1歩後ろに下がる。


「ねぇ、モーリス」


「いかがなされましたか?」


「ホットミルクもいいけど、少し、お話をして欲しいの」


 朝が早い彼を、こんな深夜に呼び止めてしまう事は憚られる。もう若くない身体には、充分な睡眠が必要だ。彼に、迷惑を掛ける事はしたくない。

 だが、今日だけは1人になりたくなかった。


「お話、ですか。では、私が昔出逢った女性のお話でも致しましょう」


 彼は迷惑だなんて微塵も思っていない様子で、私に優しく微笑んで見せた。

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