V 借り物の名前

1

 最後に見たのが、もう随分と昔に思える寝室。

 ナイトテーブルに置かれたキャンドルに火を付けるモーリスの姿を眺めながら、彼が淹れてくれたホットミルクに口を付ける。

 薔薇の花弁が練り込まれたそのキャンドルは、私が所持しているキャンドルの中でも最も気に入っている物だ。ふわりと柔らかく立つ薔薇の香りは何処かモーリスの匂いに似ていて、とても穏やかな気持ちになれる。


「さて、ではお嬢様のお望み通り、“お話”でもしましょうか」


 私が眠りやすい環境を作ってくれた彼が、漸くベッドの隣に置かれた木の丸椅子に腰掛けた。


「あまり面白い話ではありませんが、今のお嬢様なら、興味を示してくださるかもしれませんね。――これは、随分と昔の話になります」


 彼の口ぶりに自然と期待が膨らむのを感じながら、ゆっくりと穏やかな口調で話し始めた彼の声に耳を傾ける。


「その日は確か、珍しく空気の澄んだ早朝だったと記憶しています。私の日課であった、奥様の好きな花を調達しに街へ出ていた時の話なのですが――」


「街に? 貴方が?」


「ええ、20年程前の事ですので。当時は私もまだこのお屋敷に来たばかりで、買い出しや掃除などの雑用を主に担当しておりました」


 モーリスの現在の年齢は把握していないが、20年も昔の事であれば、彼も今よりずっと若かった筈だ。彼の若い頃の姿には非常に興味があり、叶うことなら見てみたかったとぼんやりと考えながらミルクを啜る。


「その街で私は、長い黒髪に赤い瞳が印象的な、若い女性と出会いました。シェリルと名乗ったその女性は、エルお嬢様の様に非常に心優しいお方で、とても魅力的な女性だった事を今でもよく覚えております」


「……私の様に、って……流石にその方に失礼だわ」


「私は事実を言った迄ですよ。――その女性はとても街に溶け込んでいて、一見街の人間と変わらない様に見えましたが、気になる事が1つ。彼女は自身と同じ階級の筈なのに、何故だか佇まいも、話す言葉も、貴族の其れと変わりなかったのです」


 興味が湧く、と言うにはまだ段階が早い。だが、その話に妙な感情が沸き上がり、カップに落としていた視線を上げた。


「……それは、彼女が特別礼儀正しかったという訳では無くて?」


「勿論、私も最初はそう思いました。それに、転落貴族の1人かもしれぬとも、考えました。だけど、違った」


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