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 廊下は寝室よりも温度が低く、空気がひんやりとしている。羽織物の一つでも持ってくるべきだったかと後悔しつつ、燭台の灯りで辺りを照らしながら屋敷の中を練り歩く。

 改めて、この屋敷はとても広い。人の居ない深夜だと、猶更その広さを痛感する。 


 ぼんやりと様々な部屋を眺めながら、幼少期の事を思い起こす。当時まだ小さかった私は、この屋敷が世界の全てだと思い込んでいた。

 見る物全てがきらきらと輝いて見えた当時の私は、良い意味でも悪い意味でも、何も知らなかった。

 両親の言葉の意味、使用人と自分達の違い、格差、社会の制度。何も知らなかった私はきっと本当に幸せだったのだろう。幼少期の頃の記憶は朧げで殆ど覚えていないが、それでも無邪気に笑って生きていた事は覚えている。

 そんな幼少期に戻りたいかと問われれば、直ぐには答えられない。だが、今よりかはきっと数倍もマシだ。

 何も知らずに生きていられたら、同じ時間の中をループする様に繰り返し生きることが出来たら、それ程楽になれる事は無いというのに。


 メアリーとの関係は、今後どうなってしまうのだろう。先程ドレッサーの前で、確かに感じた彼女との間の壁。

 もしかすると、もう楽しく会話をする事も出来ないかもしれない。お茶会ティータイムを共にする事も出来ないかもしれない。もう、心からの笑顔を見せてくれる事はないかもしれない。

 だが、それが“当然”であり、当たり前の事なのだ。使用人と令嬢。それはどう足掻いても変えられない関係。

 

「――幸せ、私は、幸せ」


 先程母が言っていた言葉を、同じ様に口に出してみる。


「――幸せ、幸せ、私は、誰よりも幸せ」


 自分に言い聞かせる様に、そう思い込む様に、何度も、何度も、口に出す。


 毎日、1時間毎に違う家庭教師が私の元を訪れ、私に“教養”する。ピアノ、ヴァイオリン、社交ダンス、テーブルマナー。学ばなくても生きていける事ばかりだ。

 それを、私は黙って受け、無駄に知識をつけていく。そんな変わらない毎日。仲の良い使用人とも、会話という会話だって出来やしない。

 

 ――そんな私が幸せだなんて、笑ってしまう。


 もしこんな残酷な世界が幸福な世界だというのなら、一体神は何を思いこの世界を造ったのだろうか。

 誰かが言った、“神は乗り越えられる試練しか与えない”。もしその言葉が本当なら、私に与えられた試練とは何なのか。それは、乗り越えられる物なのだろうか。

 私には分からない。何も、何も。

 ――何も。


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