III 母の瞳

1

 22時半の寝室。ドレッサーの前で私の髪を梳くメアリーの姿を、鏡越しに見つめる。

 彼女の頬のガーゼや両腕に巻かれた包帯は、目を背けたくなる程に痛々しい。

 全ては私の所為だ。私があの時、掃除を手伝うなんて言わなければ、もっと周囲を気にしていれば、彼女にこんな大怪我を負わせる事は無かった。


「メアリー……、昼間は、ごめんなさい」


 鏡越しに彼女の顔色を伺いながら、恐る恐るその言葉を口にする。

 彼女が今の今まで日中の話題を出さなかった為、触れるべきではない事柄かと思っていたが、それでも私の所為で怪我をさせてしまった以上このまま黙っている訳にはいかない。


「お嬢様が謝る事ではございません。全ては私の責任です。あまり気に病まないでください」


 私と視線を交わらせる事は無い物の、彼女の口調はいつも通り優しく、その表情は穏やかだ。だが何処か、私と彼女の間に壁を感じる。

 そもそも、この家の令嬢である私と、使用人の彼女が親しい間柄という時点で普通じゃない。本来なら、何方も壁を作るべき関係だ。

 単に、今までの私達の関係が異常だった。たったそれだけなのに、どうしてもその事実が悲しくて、認めたくないと思っている自分が居た。



「それよりも、指の傷はまだ痛みますか?医者からは、深い傷だったと聞きましたが」


「……私は……大丈夫よ」


 確かに彼女の言う通り、指先の傷は深かった。全く痛まないと言ったら嘘になる上に、医者からは完治に多少の時間が掛かると言われてしまった。

 だが、そんな私の傷よりもメアリーの傷の方が余程深い。後に庭師ガーデナーの彼から聞いた話だが、腕の傷の方は特に酷く、傷跡が残ってしまう可能性も低くは無いらしい。

 女性の身体に傷をつけてしまうだなんて、あってはならない事だ。メアリーは気に病むなと言うが、それでも私は酷く自責の念に駆られていた。


「――ごめんなさい」


 もう一度、謝罪の言葉を口にする。

 それに対し、メアリーは何も言う事は無かった。ただ、微笑みを湛えたまま私の髪を梳く。


 そんな彼女の姿を見ながら、ふと脳裏を過ったのは日中の父の事。父の行動は、あまりにも不自然だった。


「ねぇ、メアリー」


 使用人の彼女なら、父との接点も私以上にある筈だ。彼女なら何か知っているかもしれないと、彼女に再び声を掛ける。


「今日のお父様、少し、変じゃなかったかしら」


「……変?」

 

 今まで微笑みを湛えていた彼女が、その一言で急に顔を強張らせた。髪を梳く手が止まり、何かを考えこむ様な表情に変わる。

 鏡越しに見つめたメアリーは俯いたままで、相変わらず視線は交わらない。もしや聞いてはいけない事柄だったのかと、心臓が早鐘を打つ。

 だが突如、彼女がぱっと顔を上げた。


「それは、私が旦那様を――」


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