4

「自分の身分の事も、階級の事も、勿論全て理解しているわ」


 震える声で、当たり障り無い言葉を紡ぐ。


「でも、今日の事は――」


 頭に並べた許しを請う言葉を、口にしようと顔を上げた。


 瞳に捉えた、恐ろしい程無表情の父の顔。

 そして、振り翳す赤い薔薇が活けられた陶器の花瓶。


 自身はその後、何と言葉を続けようとしたのだろうか。頬を掠めた花瓶に、言葉を続けるは愚か、その言葉すらも頭の中から消えてしまった。

 自身の背後の壁に“それ”はぶつかり、ダマスク柄のカーペットが敷かれた床に水と薔薇、そして先程迄“花瓶だった物”が散らばる。

 激しい心音は、自身の物か。それとも腕に抱いたメアリーの物か。それも分からなくなる程に、恐怖で思考が埋め尽くされる。


「――何してるんだ、早く片付けろ」


 巡る思考を断ち切ったのは、父の冷酷な声。顔を上げると、父が鋭い視線で私達を見下ろしていた。


「……ご、ごめん、なさい」


 それは誰に向けられた言葉なのか。恐怖に支配された今、私はそれを理解する事が出来なかった。


 メアリーから身体を離し、割れた破片に手を伸ばす。

 どうすればこの状況を回避できるのか、どれだけ考えようとしても恐怖心が邪魔をし、答えに至らない。


「――!」


 大きな破片を拾い上げようとした際、指先にちくりと鋭い痛みが走った。思わず、散らばった破片から手を引っ込める。

 大した怪我では無いというのに、指先の怪我は何故こんなにも出血量が多いのだろうか。じわりと滲んだ鮮血は止まることなく、カーペットに一滴雫が落ちる。

 そんな私を見たメアリーの顔が、一瞬にして青く染まった。大丈夫だと伝えようと慌てて口を開くが、間髪を容れず父がわざとらしい口調で嘆く。


「――あぁ、お前の所為で私の大切な娘が怪我をしてしまったじゃないか」


 過度な恐怖心からか、将又酷い動機と息苦しさからか、声の出し方を忘れてしまった様に言葉を出す事が出来ない。その代わりとして、強く首を横に振り否定を示すが、父は私に目もくれずメアリーをきつく睨みつける。

 

「傷が残ったら、どう責任を取るつもりだ」


「も……申し訳ありません、今すぐに片づけます」


 顔に恐怖を滲ませたメアリーが、声を震わせながら慌てて花瓶の破片の方へ手を伸ばす。だが父はそんなメアリーに「もう遅い」と一言投げ掛け、その小さな背を勢い良く蹴り飛ばした。その衝撃で、バランスを崩した彼女の身体がぐらりと傾く。


「メアリー!」


 咄嗟に彼女の名を呼び、その身体を受け止めようと手を伸ばした。このまま倒れてしまえば、彼女は間違いなく散らばった破片で大怪我をしてしまう。

 これは全て私が招いた事だ。それにメアリーを巻き込み、怪我をさせてしまうだなんて、そんな事絶対にあってはならない。

 だが伸ばした手はメアリーに届く事は無く、虚しく空を切った。


 ぐしゃり、と陶器の破片が擦れ、割れる音が響く。

 メアリーの髪を纏めていたブリムが外れ、長い髪が床に垂れている為彼女の表情は見えない。だが、私の怪我とは比にならない程の量の血液がカーペットに滲みを作っていた。


「エル、お前もあと半年後には成人を迎えるんだ。そろそろ、“道具”の使い方を覚えるべきだよ」


 父が、先程とは打って変わって優しい笑みを私に向ける。そして、未だ床に倒れたままのメアリーに一言「日が落ちる前に全て片付けておけ」と言葉を投げ、早々と仕事部屋の方向へと消えていった。


 視界の隅に映ったメアリーが、操り人形マリオネットの様な不自然な動きでゆっくりと身体を起こす。その拍子に見えた彼女の顔には、無数の傷と真っ赤な血液が付着していた。

 メアリーが身体を動かす度に、ぱらぱらと床に血液の付いた破片が落ちる。


「――お嬢様、お怪我は」


 メアリーが私の方へと手を伸ばした。その手を強く握り、「大丈夫よ」と声を掛ける。

 今のメアリーは、決して軽症ではない。きっと傷が痛んで酷く苦しいだろう。

 だが彼女はそんな中で、「良かった」と一言零し儚い笑みを見せた。


 確か、今日は母の身体を診に医者が来ていた筈だ。

 ただの切り傷ですら、手当を怠れば化膿や感染症の危険性を伴う。早く、メアリーの怪我を手当してもらわねばならない。

 

「メアリー、お医者様の所へ行きましょう」


 彼女の身体を支えようと、その背に腕を回す。

 だが、私の手を遮る様に“誰か”の手が強引にメアリーの身体を抱き上げた。


「メアリーの事は私が。お嬢様も、医者の手当てが必要でしょう」

 

 僅かに泥が付着した黒のエプロンに、使い古した白のシャツ。私と目を合わせる事無く淡々と告げたのは、先程庭園の管理をしていた筈の庭師ガーデナーだった。

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