3

「お前は賢い子だ。私が言っている事、分かるね?」


 私の瞳を真っ直ぐに見据え、父が笑った。


 幾ら自分達の身分が高かったとしても、幾ら彼女達の身分が低かったとしても、それが暴力を振るっていい理由にはならない。階級制度なんて物が無くなれば、私達はなんの変わりもないただの人間なのだから。

 だが階級制度を含めた人間同士の差別は、私達が人間である以上取り除く事は不可能に等しい。私の瞳に映る父は“異常”だったとしても、この世の中に生きる人間の瞳で見れば“正常”なのかもしれない。


 自身の中を渦巻く諦観と絶望。

 父の言葉を肯定する様に、手に持った雑巾を床に落とした。


「お父様、その手を離して」


 満足気な顔をした父が、手の力を緩める。その拍子に、ゆらりと傾くメアリーの身体。

 咄嗟に手を伸ばし、彼女の身体が床に叩きつけられる前に抱き留めた。


 それは、反射的に取った行動だったと思う。自身の行動を見た父がどう思うかだなんて、考えなくとも解る事だというのに、それを止める事は出来なかった。

 父の呆れた溜息を頭上で聞きながら、メアリーの背を摩り「大丈夫?」と声を掛ける。それに彼女は弱々しく微笑み、小さく頷いた。


「エル、残念だよ。お前が私の言う事を分かってくれないなんて」


 父が軽い足取りで私達の周囲を歩きながら、落胆の滲んだ言葉を漏らす。

 現状を知らない人が聞けば、きっと差程大きな問題では無いと判断するだろう。それ程に、今の父の口調は柔らかく、まるで子供を諭す様な声音だ。


 ――いっそ強い口調で叱りつけてくれれば。

 そう思ってしまう程に、私にとって父の柔らかい声音は、腹の底が読めない恐怖その物だった。


 私が今日、メアリーに話掛けたりしなければ、メアリーの仕事を手伝ったりなどしなければ、きっと彼女をこんなつらい目に合わせる事は無かったのだろう。悲しい事だが、それが現実だ。

 だが、本当に“それだけ”なのだろうか。

 ただの勘だと言ってしまえばそれまでだが、今の父の怒りの原因は他にもある様に思えた。


「――お父様の言っている事が、分からない訳では無いの」


 考えれば考える程、今日の父の行動は不自然だ。

 数時間前の父は普段通りで、特別苛立ちやストレスを抱えている様には見えなかった。尚且つ、父は使用人に八つ当たりをする様な人間でも無い。

 今の父の行動には、何か“意図”があるのでは無いか。沸き上がった僅かな疑問は、徐々に広がっていく。


 だがこの状況でそれを父に指摘できる程、自分は肝が据わっている訳でも無かった。

 今目の前にいるメアリーと、自分自身を守る事で精一杯だ。疑問の真相を解き明かす余裕は、微塵たりとも存在しない。


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