第六話 夜陰
十二月三十一日十七時の新宿駅東口広場にはまばらに人がいる程度でした。東口にある大型スクリーンには年末の特番が流れており、大きな笑い声が街に広がっています。花子は広場にある段差に腰を掛け、寒い中にもかかわらずスマートフォンを触っていました。
「続き、思いつかないな」
ネットに投稿している小説のネタに詰まり、花子は立ち上がったり座ったり少し歩いたりを繰り返していました。出店のクレープを買いつつも、スマートフォンのメモ帳とにらめっこをしています。もう日が暮れる時間になりますが、メモ帳の文字数は二千文字を行き来していました。
日が沈み、ネオンが広がる繁華街で花子、西垣、林の三人はダラダラと居酒屋に向かいます。お酒を殆ど飲まなくても騒げる三人は時間を忘れるほど楽しく過ごしました。周りの人たちと変わらず、居酒屋の片隅でも、それは一つの幸せでした。
食事を終え、酒臭い集団とすれ違いながら迷子になりそうな新宿駅へと向かいました。大声で笑いながら二次会先を探している社会人ら、笑いながら正月の話をする家族、腕を組む男女、目に入る人と人の関りに花子はいつも目で追っていました。林と西垣の大学でのハプニング話を聞き流してしまうほど花子は『未来になるかもしれない人々』に意識が向いていました。
「公園は高校の近くのでいいよね?」
西垣の提案に二人は喜んで同意しました。新宿駅の改札を抜け、電車の音が大きく響く地下ホームへと降りました。終電が近いホームは繫華街と変わらず人の声であふれていました。
三人は各駅停車の電車に乗り、温かい座席に横並びで座りました。冷えた手を温めながら西垣と林の間に座った花子は先ほどの不安が和らぎました。
街灯の明かりが足元を薄く照らす住宅街の中にある公園で三人は並んでブランコに座っていました。同じく公園で年越しをするグループ、公園の小さなグラウンドでサッカーの自主練習に励む少年、電車の本数が減り静かな踏切、近くの家から聞こえる家族の笑い声、感慨深いこの時間は心躍ると共に、どこか寂しさも襲います。
「来年も集まれるかな」
林が月を見ながらつぶやきました。来年はもう今以上に自由はできません。もしかしたら院でも就職でも時間ができるかもしれないと、淡い願望がありますがおおかた難しいことです。そもそも現に三人は大学生活であまり時間が取れない学部でした。すでに高校時代より会う時間が減り、しかも予定を合わせるのも難しかったのです。
「ちゃんと土日祝休みのところしか受けないから」
土日だけでもと花子は希望をふたりに話します。
「院に行くと大学に行くこと増えるけど、私も休みはもぎ取るから!」
花子と同じく就活中の西垣は足をプラプラさせて冗談まじりに言いました。
どこか遠くから響き渡る除夜の鐘は、静かな年明けを告げます。ですが、その鐘の音に気がつけないほど三人はいつもの笑顔でお話を続けていました。きっと、就職したら減ってしまう三人の時間をかみしめ、将来を考えて悲しくならないように、笑顔でいました。
*
年が明け、大学の講義終わりには就活のお知らせであふれました。花子は続いて講義があるため、早く終わらないかと半ばイライラしていました。
「では、今度の大学で行う説明会の資料欲しい人は教壇に置くから、取りに来てね〜。終わりで〜す」
腑抜けた声で話す助手の合図で教室は賑やかになります。花子は資料をさっさととりに教壇に向かうも、謎の雑談を助手と始めたグループのせいで、なかなか資料が配られません。しかも、教壇の周りでたむろするグループのせいで教壇に近づけないのです。
「はぁ……」
声をかけても、雰囲気を壊して冷ややかな目で見られるのが容易に想像できます。あとで学科の受付に行けばいいやと、花子は後ろの出口から小走りで教室を後にしました。
今日のデザイン学科の講義は近代のファッション史です。この講義は通年のため、そろそろ終わる時期です。そして、教室の人数が増え始める時期でもあります。テストやレポートの範囲だけを聞きに来る学生が大勢いるのです。花子は純粋に服のデザインを考えるのが好きで、この講義を選択していました。だからこそ、映像や黒板が見える席に座りたいのです。しかし、ギリギリの時間に入れば空いている席を探すのに一苦労です。
「先週までいなかったくせに」
俗に楽単だと言われるこの講義は、講義に興味のない人間の喋り声ばかりでした。
日が顔を隠し、大学内にも静寂が戻ってきます。花子は実習が終わった後もアトリエに残り、授業で完成できなかった油絵を仕上げていました。アトリエには花子、そして立花の友人らが数人残っています。賑やかなグループに一切見向きもしない花子でしたが、気が散って納得のいく線が引けませんでした。技量の問題であると花子は自覚しており、納得いく領域まで行けないとは承知していました。この絵が世間的には上手いとされても、絵を描く人間の中で上手くなければそれで終わりです。ただ絵が描ける人間に成り下がります。だからこそ花子は妥協をしたくありませんでした。
花子は汚れた手を見てクリーナーが付いた布で落とし、休憩がてら外の流し台へ向かうため立ち上がりました。
「あ! 鈴木さん! ちょっと見てくれない?」
賑やかなグループの中から、立花が花子を手招きます。花子の知らない人間が花子に振り向きます。花子はその顔ぶれをみて、自身が場違いであると痛感しました。世界コンクールの金賞を取った人、テレビにも出演している人、ネット上で大人気の人、成績優秀で表彰された人、教授の推薦で大手に就職できた人、みんな煌びやかな経歴を持っています。それでも呼ばれたからには立花に花子は歩みました。
立花は、今度の会社説明会のエントリーに自由作品が必要であるようです。その自由作品を友人と考えながら作成しており、花子にも意見を聞きたいとのことです。
「やっぱさ、あそこの会社なら写実性とかさ」
「他にも使えるように、万人受けする……」
周りの立花の友人が次々に意見を述べています。花子は立花に申し訳なさそうに小声で話します。
「私より、周りの凄い人たちに聞いたほうがいいよ」
立花は目を軽く丸くしてからふにゃっと笑い、花子に返答します。
「それなら呼ばないよ! 私は鈴木さんの意見が聞きたいんだ。それに、ほら。みんな別で盛り上がっちゃっているし」
立花の友人たちはもう別の人の話題に変わっています。
立花の絵は万人受けする水彩画のとても優しいタッチです。海に浮かぶ愛らしい女性、浮き輪や水着のデザインはそれこそ駅広告に張り出されても問題ありません。
「私の好みでいいの?」
「うん! 鈴木さんのパキッとした色ぬり、私にはないからさ。是非そのタイプの人が見た意見が欲しいな」
元気よく返事する立花に、花子は失礼の無いよう、はっきりと意見を述べました。
「うーん。私的には海の反射に緑入れたくなるかな。エメラルドとか」
「エメラルドか〜。作れるかな」
「それか、強弱つけたいかな。海の影に蛍光青とかで軽く混ぜてみたら?」
「蛍光青よさげ〜! 持っていたかな?」
「持っているよ」と花子が口を開く前に、立花の友人らが返事をしました。
「蛍光の水彩ならこいつがたくさん持っているぞ!」
「この前、先生に業者か!って言われていたじゃん!」
そう言われた立花の友人は大きな鞄から大量の蛍光色を取り出しました。
「本当だ! 業者じゃん!」
立花は吹き出して笑います。花子から離れ、友人らの中へ行ってしまいました。花子はその人が出した絵具を覗き込みます。蛍光色以外にも溢れんばかりの絵画用具が見えました。明らかに、絵に人生を捧げている人にしか買えない量でした。しかも、どれも使い込まれている跡があり、普通であれば到底同じステージに立つことはできない人間であると感じます。立花はその中から色々な青色を選び、花子の傍に戻ってきました。
「鈴木さん、これとか?」
花子にどれが良いかと立花がいくつか絵具を差し出します。
「立花の絵ならこっちがいいよ」
花子が指を刺そうとする瞬間に、立花の友人が横から選びました。花子は自分の意見より、優秀な人の意見の方が確実だと思い、それに同意しました。
「ちょっと〜、私は鈴木さんに聞いてるの!あんたのアドバイスはいっつもカンじゃ〜ん」
冗談まじりでその友人を突っついた立花は、再び花子に絵具を差し出します。
「私の絵に似合うのどっちかな?」
今、確実な実績のある人間が指した色と違う色を花子は選ぼうとしますが、指が止まります。第三者から確実な評価を得た人間の選択と花子の選択、どちらが良いかなど明白です。花子は意思と違う色を選ぼうとしましたが、立花の曇りない笑顔を見て一瞬指が止まりました。
「この蛍光と、淡い……のもいいけど」
花子は素直に自分が好みと思う絵具を選びます。わざわざ立花が大量に持ってきたので、自分の好みと相手の絵柄に合う色を選びました。
「ふたつ? ありがと!」
立花が礼をし、花子は複雑な気持ちになりました。自分が選んだ色が本当に良かったのか?後々失敗したら?と思い、立花に対して軽い会釈しかできませんでした。
花子は廊下のお湯の出ない水道で手を洗っていました。アトリエの中からは、楽しそうな笑い声が廊下に近づいてきます。冷たくなった手を擦りながらアトリエに戻る際、立花らとすれ違いました。そのうちの一人と肩がぶつかりますが、相手はすぐに申し訳なさそうに謝ってきました。
「わ、ごめん! 大丈夫?」
彼はそう言い、優しく花子を支える手を離し、立花の周りへと行ってしまいました。花子はそのグループの背を見つめて、ふと自分の惨めさに押されます。
「魅力もあって良い人たちなのに、嫉妬なんて失礼だ」
自分にしか聞こえない声で花子は呟き、頭を振ります。何者にもなれない自分がとても惨めであると思っていました。
鋭く眩しい電車に乗り、花子はスマートフォンを開きます。しかしいつも開く原稿やサイトではありませんでした。「自己ピーアール」「学生時代に最も打ち込んだこと」「苦労して乗り越えた経験は?」、目に見えるだけでため息が出る内容が表示されています。大学の就職支援課で職員と共に考えた内容を打ち込むも、綺麗ごとばかりで、本心ではないような気がして打つのが億劫になります。花子は一気に写し終え、席に全身を持たれかけました。大きなため息を上に吐きました。
家に帰った花子はいつものように冷えた夕飯を温め、倒れるように眠りにつきました。
目を覚ませば温かな光差し込む、アリエッタの部屋です。支度を済ませて、花子はため息をつきながら階段を降りました。
「おはよ! どうしたの? よく眠れなかった?」
すでに働いていたティーモがひょっこりと花子の顔を覗きました。
「大丈夫だよ」
この世界では関係ない事だと飲み込み、花子は寂しそうに笑いました。それを見たティーモは温かい手で花子の手を引っ張ります。流れるままに花子はティーモに釣られて、眩しい日が刺す外へと足を運びます。きょとんとする花子に、ティーモは朝日に劣らない笑顔を向けました。優しく輝くティーモの笑顔は見ているだけで安らぎますが、何か話すのかとそれを見つめていた花子に、ティーモはあれ?と首を傾けました。
「私の笑顔は癒されるってアリエッタが言っていたから、ハナコにも効くかなって思ったんだけど」
大真面目にティーモは答えました。変に気を張ってしまった花子は崩れるように表情が柔らかくなります。
「あ! 笑った! やっぱり、私って癒されるのかな? じゃあ歌も一緒にどう?」
ティーモは花子の腕を引き、くるくると庭を踊り始めました。
「川を越えて山を越えて空を目指そう♬なにもなくても君がいれば虹にたどり着ける♬」
春の陽気のように温かく優しい歌声です。そして少し赤い頬に、新緑と同じく輝く髪の毛、瞳は曇りのない琥珀色に輝き、全て花子を照らしてくれています。ティーモは酒場の仕事も笑顔でこなし、今も朝から働いています。花子より硬い手ですが、気にならない程暖かみを感じ取れます。花子は自分の存在と比べてしまい、ティーモの笑顔から少しだけ目を逸らしました。
花子はティーモが自分とさほど変わらない年齢だと読んでいます。ティーモに比べて現の花子はどうでしょうか。人を見ては嫉妬し、何かに一生懸命になることも出来ていないと思っています。ふわふわと生きている自分が情けなく思ったのです。そんな情けなさは考えるだけ無駄だと花子は思っても、振り払うことができませんでした。だからティーモがこんな自分に笑顔を見せてくれる事に、全てが混じった感情になってしまいました。花子は嬉しくなるも、喉元から熱がせり上がってきます。
「え?! ハナコ、どうしたの?! やっぱり嫌な夢でも見たの?」
花子の頬につたう涙を、ティーモは綺麗な袖で拭います。
「はははっ。『笑顔見て』なんてことされないからね。びっくりしちゃった」
「嫌だった?」
「ううん。嬉しいよ。嬉し涙」
「何かあったら遠慮なく言ってね。ポラリスの中だと年齢とか性別とかで話すのが難しい時は、私でいいからさ!」
面と向かって頼りにして良いとティーモは答えました。花子はそんなティーモに優しくうなずきます。
酒場に戻れば温かい小麦の香りと、コーヒーの様な匂いが充満しており、席はほぼ満席状態でした。
「今日もいっぱい。朝から大変だな~」
ティーモのボヤキに、花子は声を掛けます。
「何か手伝えることある?」
意外なセリフだったのか、ティーモは体がはねます。
「え?! そんな、申し訳ないよ」
「邪魔ならいいんだけど、タダ泊まりしているのも気が引けちゃって」
先ほどのティーモの笑顔で花子は親切したくなっていました。ベッドも食事もここで済ませているからこそ、手伝いたくなったのです。ティーモはすぐにニッコリと笑います。
「本当? 嬉しい! いつも人手が足りないの! 料理できる?」
調理するのに足りないため、よく頼まれる目玉焼きを花子は頼まれました。カウンターの目の前で行うため、ティーモと連携を取って手伝いを始めます。花子はカウンターに座るお客に声を掛けられても、気さくに受け答えします。
お客が減り始める頃になると、ポラリスとの待ち合わせ時間に近くなりました。花子はティーモと一緒に朝食を済ませます。机には花子の作った目玉焼きトースト。そして果物のジュースが日に照らされながら置いてあります。
「今日はありがとう! いつも調理も私がやっていて、大変だったんだ」
「出来る時は手伝うよ」
ティーモは頬を染めながらとても嬉しそうです。ジュースを飲んで、一息ついたティーモは目線を流します。
「本当にありがとうね。今まで手伝ってくれる人はいなかったから」
花子はその言葉から、ティーモが働き続けている辛さを感じました。仕事を楽しそうにする彼女でしたが、きっとそうしていないと辛さに押しつぶされてしまうのでしょう。
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