第二話 逢魔時

 異世界に行き、現実世界に帰ってきた花子は自宅に帰り再び眠りにつきました。その時は、異世界に行くことがありませんでした。しかし、手の痛みと足の腫れは治りません。花子は大学の授業中に、昨日のことで頭がいっぱいでした。ティーモやエルナ、異世界で出会った人たちのことを思い出します。やはりあちらは夢なのか?また悩んでしまいました。異世界で自分は最強で、何もしなくても周りが称賛してくれる。対人に関しての満足はあちらのほうがいいでしょう。ぽーっと教室から木枯らしが吹く外を眺め、異世界の方が楽しそうだなと思いました。この役に立つのかわからない美術史を聞き、対して上手くもない絵を描き続けるより、良いのではないかと花子は思います。

その原因として大きくあるのが“楽そう”でした。現実ではやりたくもない就活をし、特別よりどれだけ周りの人に合わせられるかがこの世は必要なのです。自分らしさなんてきれいごとを謳う社会です。そのくれ、髪をこんな明るい紫に染め、全く女性らしさもなければ誰も着ていないようなファッションをし、化粧もしないそんな人間では一歩距離を置かれる世界です。それは花子にとって面倒で仕方がありません。自分が好きでやっていることで、誰にも迷惑をかけていない。なのに距離を置かれるのです。スーツを着て、髪を黒にして、思ってもいないことを言わなきゃいけないのです。花子からしたら奴隷製造にしか見えないのです。

 授業が終わり、昼の休み時間になりました。また今日も一人で食堂に行こうとした時、ゼミの教授に声を掛けられました。


「花子ちゃん、就活用のポートレート作っている?」

「……まぁぼちぼち」

「花子ちゃんは大丈夫ね! さすが! 忙しそうだもんね」


少し上機嫌になった先生の背中を見送って、花子は下を向きながら歩きます。本当は考えてすらいません。花子は自分がダメなやつだと思われたくないので、適当に答えたのです。「美術系だから美術系以外だと志望理由が面倒だな」という理由もあり、美術系に進もうかどうか悩んでいるレベルです。そうするとポートレートを作らなければ始まりません。しかし、載せるほどのものはありませんでした。大学の課題くらいです。趣味で多少はあるけれども趣味です。気が引けて載せる事はしたくなかったのです。

 では、大学のない空きの時間に花子は何をしているのか。花子はずうっと作詞か小説を書いていました。小説は現代ものファンタジーとジャンルを問いません。空き時間があれば書いていました。その道に進もうと花子は思っていません。少しの期待はあれども、無理だと思う方が現実的でした。作詞しても楽器は弾けません。小説を書いていても小説は全く読んでいません。基礎がないのに何夢見ているんだと、花子はよく自分のことを馬鹿にします。そもそも仕事として強制されるのは絶対に嫌でした。

 午後の授業は1コマ空いてからなので、花子は構内の外ベンチで空を見上げます。清掃員のおばあさんに寒くないかと言われて、缶ココアを貰いました。暖かくて美味しいけども、花子の心は晴れませんでした。考えたくないけども考えなければいけない就活が頭を巡ります。そして目の前にある課題提出も出てきます。大きいあくびをして、花子は自然と寝てしまいました。

 少し寒気を感じて花子は目を覚ましました。ベンチで座っていたはずですが、柔らかいベッドに横たわっていました。


「えっ?!」


ティーモの宿でした。窓は明るく、小鳥の囀りが聞こえます。朝のようです。花子は服装を確かめます。あの煌めくファンタジーな服です。明らかにここで一晩を越したようでした。すぐに部屋から出て下の酒場に降りました。酒場は夜と違って、のんびりとした雰囲気をしています。コーヒーに似た匂いと、パンの焦げる匂いがします。人々は相変わらず多いですが、みな今から仕事などに出かけていくようです。ここは朝のカフェも担っている場所でした。

 花子が階段付近でたむろしていると、朝食を食べているエルナたちに呼ばれました。


「よく眠れたか? ちょうどよかった、起こしに行こうと思っていたところだ」


エルナに聞くと、先日のことはしっかり覚えていました。花子が一晩寝ている時間の進み方です。


「今日はギルドに行くんでしたよね? 私、いえアリエッタもそこのギルドの所属だったんですか?」

「あぁ。そこで私たちと正式にパーティを組むことになったんだ。あと、丁寧な言葉遣いで無くて構わないぞ。アリエッタの見た目で丁寧な言葉だと、違和感が仕方なくてな」


 ウェイズはアリエッタの性格について教えてくれました。自信に満ち溢れており、どんな相手にでも迷いなく関わっていく人物だったそうです。自分の強さに自惚れる事はありませんでしたが、酔いしれていることはあったそうです。ここ一番で新たな力を見せてくれるなど、話題が絶えなかったそうです。

 朝食をすませると、ギルドに向かいました。三人の後ろを花子は着いていきます。三人は先日と違い、ラフな格好でした。戦闘用じゃ無い服です。エルナの腕は女性にしてはたくましく、足もしっかりと筋肉が付いています。腰まである深紅の髪の毛はとても手入れされており、歩くたびに美しく波が立ちます。ウェイズは先程から街の人たちに楽しそうに挨拶しています。街の人たちもウェイズの様に元気よく答えています。子供たちからも慕われ、人柄の良さが感じとれます。メイザはふたりと違い、花子の横を歩いていました。反射で輝く薄い金髪を隠す様に、つばのひろいとんがり帽子を深くかぶっています。メイザだけはあまり先日と変わらない服の様です。


「帽子、そんな深く被ると前が見辛くない?」

「僕、額の傷あまり好きじゃないんです。以前の戦いでついてしまったのです」


えへへと、笑うメイザの額には十字の模様があります。傷と言うよりは模様と言った方が良いでしょう。大きく目立つものではありませんでしたが、メイザは気にしているようです。


「メイザは耳が尖っているんだね」

「はい。僕はエルフなので」

「エルフ?」


エルナが花子の方に少し体を向けて話してくれます。


「エルフは自然を守るために存在している精霊に近い存在だ。本来は戦闘を好まないが、ここ最近は魔物が活発化しているためか、メイザのように魔法を習得して、戦闘する様になってきているな。ただ、エルフは人とは比べ物にならない魔力を持っている。そのため魔物の中にはそれを喰らおうとする者もいる。気をつけなければな」


少し怖くなる話でした。花子にとって、人間が喰われたりすることなど日常的に聞くことではありません。


 「そうだ! ハナコはこの街のこと知らないんですよね? ギルドに向かうまでに教えますよ」


メイザは今いる街はエラセドという名だということを花子に教えてくれました。ティーモが言っていた様に、キリマ大陸にある街です。「日本の東京」と同じ様に言い換えれば「キリマのエラセド」です。次に、中央広場について教えてくれました。中央広場は魔物退治をしに行くハンターやパーティの集合場所となっています。魔物退治はギルドに所属して、ギルド管理協会から正式に発表されたもののみ受注ができます。先日の魔物については緊急性がありましたので、後日申請したそうです。基本的に、クエストはこの世界を脅かす魔族を狩る内容が多いです。


 「最近、魔族は力をつけているんです」


メイザは徐々に暗い表情になっていきます。それに代わって、ウェイズが話を続けます。


「ハナコが来る前、アリエッタと魔族の頭、ランと戦った。天変地異が起きるほどの強敵だったな」

「アリエッタさんはその戦いで……?」

「そうだ。ランと相打ちした後消えちまった。ランはしばらく傷を癒すためか大人しいけど、また侵略してくるだろうな」


花子は不安になりました。きっとランはアリエッタを恨んでいることでしょう。花子はアリエッタと見た目も魔法も同じであるなら、戦うことは確実です。しかし、最強と言われていこの体であるなら、大丈夫だろうという余裕も潜んでいました。

 会話が止まってしまい、しばらく沈黙が続きました。次に口を開いたのはギルドについた時でした。


「ここが私たちの所属しているギルド、『イザール』だ」


木とレンガが混じった造り、上を見上げるほど高く、どっしりと構えているギルドでした。ここら一帯の建物は比ではありません。門に大きく書かれている文字はギルドの名前と思われますが、日本語でも英語でもない、この世界の文字のため、花子には読めませんでした。

 門は開いており、自由に出入りができるようです。すぐあるテラスでお茶を飲んでいる人もいます。ギルドの中では同じく、食事をしている人がいます。他にも何か書類をまとめている人、剣の打ち合いをしている人、ひとつの学校のようでした。そして目立ったのが入り口の落書きでした。落書きと言っても柄の悪い物ではなく、子供が描いた絵です。大きな壁はキャンバスのようで、今も数人が絵を描いています。

 花子と三人は奥へ行こうとするも、囲まれてしまいました。


「エルナ!一〇五番のクエスト難しいんだ! 代わりにやってくれねぇか?」

「アリエッタも帰ってきたし、回せるだろ!」


こう言った頼み事や、期待をエルナはひとつずつ答えていきました。ウェイズは面倒になったのか、花子とメイザの手を引いて、奥の廊下へと走りました。エルナも周りの人たちに喝を入れてから、ついてきました。エルナの喝はファンサービスの様で、黄色い歓声が上がっていました。

 花子たちは一番奥にあるドアの前で立ち止まります。ギルドマスターの部屋です。エルナは身なりを整えて、礼儀よく入っていきました。花子もタイを直し、一呼吸いれて入ったのですが、マスターの部屋は特別豪華なものではありませんでした。薬品や書物が積み重なり、研究所の様でした。


「マスター。エルナです。先日連絡した通り、アリエッタと瓜二つの方を連れてきました」


部屋中に響き渡る声でエルナが呼びかけますが、反応がありません。二、三回呼び続けると書物の山がグラグラと揺れ始めました。


「また崩れますよ〜!」


メイザが花子を後ろに押して、本の雪崩から守ってくれました。エルナもとっさに後ろへ下がったので、無事でしたが、ウェイズは反応に遅れて呑まれてしまいました。


「ごめん、ごめん! 片付けていたら積み上がっちゃってね」


力の抜ける声と共に、本をかき分けてきたのは物腰低い白髪が生え始めている男性でした。頭を抱えて、よいしょと本を乗り越えます。


「おーい! 俺また埋もれているんだけど!」

「また? 流石に慣れてよ〜」


男性はウェイズに乗っている本を除けながら花子の方を向きます。


「本当にアリエッタくんそっくりだね。服もそうだし。魔法も一緒なんだってね。それでも違う人なの?」


柔らかい微笑みに、花子は申し訳ないと思いつつ頷きます。


「そっか……ならまず自己紹介を。私はこのギルドのマスター、チェイブ。ちょっとごちゃごちゃしているけど、その辺に椅子あるから座って」


ちょっと、とチェイブは言いましたが、花子の周りに椅子らしきものは見当たりません。ギルドの長なのに緩い人なのだなと、花子は緊張がほぐれていました。エルサはまたもやない椅子に呆れ、散らばる本を積み上げて椅子代わりにしました。いつもこうしている様です。花子もそれに習って座ります。

 対面する状態に落ち着き、花子について話し始めます。


「こことは違う世界から来たのか。傷も残っているし、夢とは判断しづらいと。うーん。テレポートとかはわかるけど、時間も世界も違うのか。でもハナコ、魔法はどうやって覚えたんだ?」


花子はわかりません。気がついたら使える状態でした。それに加え、元の世界は魔法が存在しません。原理など知るわけがありません。花子は元の世界と聞いて思い出しました。


「私、昨晩宿で寝たんです。その後元の世界に戻れていたんです。元の世界で生活をしていて寝て、目を覚ましたら宿で」


口にして説明すると、都合が良すぎると冗談のように花子は笑いました。チェイブは同じことを訪ねます。


「じゃあこれは夢ってことか?」


ウェイズはからかいながら続けます。


「もしかしたら、元の世界と思っている方が夢だったりとかな!」


ウェイズは大きく口をあけて笑いましたが、その言葉に花子は何も返事が出来ませんでした。


「ウェイズ、冗談でもよくない発言だよ。ハナコはそこが迷っているかもしれない。だいたい傷について説明がつかないだろ」


 チェイブは真剣にウェイズを叱りました。ウェイズは冗談だってと花子はウェイズの発言で自信がなくなります。どちらの世界が本当の自分なのでしょうか。異世界の記憶がないだけで断定できる事なのでしょうか。しかし、花子は日本に生まれて東京で育った記憶があります。ますます気が落ち込んでいく花子です。


「行き来しているということだね。しかし寝れば元に戻れるなら別に問題は無いじゃないか?」

「それは、そうですけど」

「ハナコが寝ている時に起こしてみる? メイザの催眠なら少しだけでも寝かせられるよね」


花子は、皆に見られながら寝るというのは少しためらいがありました。ですがそんなこと言っている暇はありません。メイザが花子の前に立ち、詠唱します。


「痛くも苦しくもありませんから安心してください。力だけ抜いてくださいね」


メイザのセリフを聞き終わる前に、花子は寝てしまいました。体は残って、横たわっています。


「あちらの世界で寝ないでね! こっちで起こしてみるから!」


チェイブの焦り声が聞こえたとともに、花子は完全に眠りにつきました。

 花子は目の前に、人の気配を感じて目を覚ましました。目の前には落ち葉を清掃していたおばさんが心配そうに立っていました。


「お嬢ちゃん、こんな寒いところで寝ていたら風邪ひくよ?」


寝る前にココアをくれたおばあさんです。手元にあったココアはまだほんのり温かいです。時間は経っていない、となるとあちらの世界で過ごした時間とこちらの時間の進みは違うようです。清掃のおばあさんに心配されながらも、花子は校舎内のベンチに移動します。チェイブの言っていたように、寝ないよう気をつけて花子は過ごしました。就職に役立たない美術論を聞き、課題を済ませるためにアトリエにこもりました。


 「あっちの方が楽しそうだな」


ポツリと廊下で花子は呟きました。同じようなルーチンを続けるのは苦ではありません。大学の授業も興味あるもので進んで授業を取っています。しかし、嫌でした。将来に対しての漠然とした不安が肩を重くしました。きっと逃避したいという願望のせいでしょう。将来どうすべきか。異世界では魔族を倒すという目標があります。自分を偽って自己分析という名の企業への機嫌取りをするより、何十倍もマシです。最強の力があって、優しい仲間がいる、周りは自分を讃えている。戦うことで死という恐怖はこの時の花子にはありませんでした。比較した結果、この世界より異世界に逃避する選択に心はなっていました。なぜなら無条件で力をもらって無条件で讃えられていますから。


花子は今日も放課後は第一アトリエに籠りました。一面が全面窓の開放感あふれる第一アトリエですが、夜になれば明かりのない暗闇が広がっています。授業でも使われるため学校で一番大きなアトリエのため、いつもは何人か居残りしています。


「鈴木さん! 赤色ある?」


突然、立花が花子に話しかけてきました。面識が全くないわけではありません。同じゼミなので、話そうと思えば話す相手です。今、このアトリエは花子と立花しかいなかったのです。距離が少しあったので、花子は軽く投げて立花に赤色を渡しました。


「ナイスキャッチ」

「さんきゅー!」


笑顔で立花は受け取り、描くのを再開しました。花子は立花を見るたびに、こう思います。ああいう子がいい就職先で、いい彼氏も見つけて、世間でいう幸せな生活をするのだろう。と。立花はさして成績も悪くなく、容姿についても良くも悪くもないです。しかし、持ち前の明るさで、学科内で知らない人はいないほどの知名度でした。いつも誰かしらといて、笑顔の絶えない子です。今、アトリエには花子と立花しかいません。だから花子借りたのでしょう。他の人がいれば、自分なんて目もくれないと花子は思っていました。それでも、立花が笑顔で感謝してくれたことは、心が軽くなりました。

 花子は課題を再開しました。しばらくキャンバスに向かっていたら、立花が絵の具を返しに、隣に立っていました。


「鈴木さんって、色使い上手だね~! 私好きだよ」


お世辞だと思い、花子は軽く笑って謙遜します。先生に褒められたこともなく、むしろ「基礎ができていなくて微妙に下手」と言われるばかりです。コンテストで賞を取ったのは高校時代一回だけです。しかもその賞も特別賞です。誇るには微妙な賞だと花子は思っていました。花子は自分の絵は好きですが、上手いだなんて思っていても言えませんでした。周りにいる同級生は賞を取り、絶賛され、遥かに届かない絵を描くからです。


「いつも色使いが派手で、パキッとした輪郭とるよね。私、言われた通りの教科書まんまみたいになっちゃうんだよね。そうやってちょっとアニメ調みたいなの羨ましいな」

「私からしたら、教科書の通りで、それを上手くかける方がいいよ。デッサンだってしっかりかける方が就活は良いじゃん」

「ははっ。就活はね。就職するためにデッサンは必須で、物を物らしく書けないといけない。だからみんなデッサンは描くけど、私はそれ以外ができないからね」


立花は歯を出して笑いますが、どうも心底からのものではないと花子はわかりました。ぎこちない笑顔はすぐにわかるものです。花子はそれ以上就活のことは触れないようにしました。花子も、立花も、誰も幸せにならない会話です。立花は違う話題を振ってきました。


「前から見ていて思ったんだけど、服どこで買ってるの? アレンジ上手だね!」


花子の服は短い和服を少し改良し、ワイドパンツで大正ロマン風にしています。それにブーツと革ジャンを合わせており、絶対にファッション雑誌では見ない格好です。花子は誰も見ない服装が好きで、よくその格好をしていました。


「かっこいいじゃん?」

「おぉ〜。たしかに! 見たことない服装だけど、オシャレだよね。いつもゼミ楽しみなんだ! 今日はどんな服着てくるのかなぁって」


花子の顔には自然と笑みが浮かび上がりました。誰にも何も言われない自分の絵、服装。誰かに感想を貰いたいからやっているわけではありませんでしたが、誰でも称賛されれば嬉しいものです。しかも、周りから人気者である立花から言われました。花子は微かに人気者の立花に憧れていたのも事実です。立花の交友の広さ、明るい性格、全てが羨ましかったのです。

 そんな幸せな時間も束の間。最終下校のアナウンスが放送されます。ふたりは急いで片付けて、校舎を後にします。


「帰りの電車、私はこっち。鈴木さんは?」

「私は向こうの駅なんだ」

「そうなの! じゃあまた明日ね!」


暗い夜でも輝く太陽な笑顔で、手を振ってさよならをしました。花子もそれにつられて、慣れない感じで手を振り返しました。花子は心がムズムズしました。立花と話せたこともそうですが、自分の事をどう思っているのか気になってしまいました。相手に失礼な会話をしていないか?相手は笑顔だったけど、もしかしたら無理して話していなかったか?考えても答えは本人しかわからないのに、考えてしまいました。大学で自分の事を知っている人間なんて殆どいないのに、彼女は知っていた。今度からもう少し、笑顔で過ごそうかなと悩みながら、電車に乗りました。

 花子は電車でいつものように、好きな歌を聴き、物語を書いています。ネットに投稿はしていましたが、所詮自己満足です。コンテストに応募しても、イベントに参加しても、本格的な人々に埋もれていくだけです。それでも十人、百人。間違ってアクセスしたレベルのちっぽけな数字でも、花子は喜びにしていました。この世では何も役に立たないこの数字だけがそこにありました。

 どれだけ服装が特徴的でも、中高皆勤賞でも、スポーツが一通りできても、絵がそれなりに描けても、小説が少し書けても、歌が少し上手くても、この世で生きていくには必要なものではありませんでした。この世で必要なのは、どれだけ本性を押し殺して、上面だけの言葉が笑顔で言えるかです。好きなことして生きている人は、一種の天才の領域に入っています。全てをひとつのところにかけて生きられる人がそういう人なのです。花子はやりたいことがありすぎました。絵も嫌いじゃないから描いていたい。音楽も、物語も、ファッションも。花子は、いつも迷っているのです。

 家に着くと、ダイニングで母親が夕食の片付けが終わった様子でした。


「夕飯食べる?」

「食べる」


母親はラップのかかった煮物とほうれん草のおひたしを持ってきました。花子は温かい白米とともに食事を始めます。


「お父さんは犬の散歩?」

「そう。私はもうそろそろ寝ようかと思って」


 花子の両親はどちらも定年退職をしていて、微かな収入しか今はありません。花子が就職しなければ、妹の学費を払うのが難しいのです。国立に通う兄はさほどお金がかかりません。その中で私立の芸術大学に通う花子は、「だからこそ自分が」と、花子はそう言い聞かせていました。家では笑顔で楽しい毎日を過ごしています。好きだから、その呪いで苦しんでいるのです。


「本当に公務員目指すの?」


母親が問いかけて来ました。花子は芸術系の企業に就職する気はさらさらありませんでした。芸術系の就職先など、時間は不定期、休みも不定期、〆切に追われるものばかりです。未だに昔の気質が残り、弟子制度や下積みと言う名のパシリも絶えません。それでも人々は表現に憧れ、ブラック企業と言われる過酷なこの業界に進みます。そのため、花子は公務員の中の芸術復興関係に進みたいとふと呟いた事があったのです。


「まぁ、そうだね」


芸術復興に興味を示したのは学芸員の授業を受けたからでした。芸術による教育が人々の生きがいを作って行く事を学びました。それでも花子は心の隅で、公務員なら両親が安心してくれる。という思いがあったのです。芸術を突き詰めても成功しなければ一生底辺のままです。芸術復興なんてほんの少しの興味で選んだだけです。幸せに家族として過ごしているからこそ、自分が就職で失敗して悲しませてしまうと想像するだけで泣きそうになっています。花子は想像しないように夕飯をかきこみ、無心でお風呂に入って、「就活解禁まであと三ヶ月」と騒ぐリビングのテレビを横目に部屋に戻りました。

 寝る準備をしますが、寝てはダメとチェイブに言われていることを思い出します。あちらとこちらでは時間の流れが違うのでしょう。すぐに起こすと言っても花子は現実世界にいます。寝る他やる事がありませんので、いつものベッドで目をつむりました。

 起こされると、エルナが花子をのぞいて見ていました。


「あちらに帰っていたか?」

「帰っていました」

「寝たのを確認したらすぐに起こしたのだがな。やはり時間の流れは違うようだ」


チェイブは眉を八の字にします。


「寝たら、変わるのか。もっとわけわからないなぁ。でも、何か支障があるわけじゃないし、気にしなくていいんじゃない? ふたつの世界を生きられるとか最高じゃない?」


ケラケラと笑い話にしました。


「さっきは俺が笑っていたら怒っていたくせに」

「でも帰れているし、寝られている。何か困ることある? 怪我くらいじゃない?」


 チェイブは花子に異世界の過ごし方を教えてくれました。お金はギルドから出しているクエストの報酬金で生活には困らないようです。漫画やゲームで見た世界に似ているここが、花子は遊びみたいに思えてきました。いっそここで生きれればなと。


「というか、君たちポラリスはクエスト溜まっているでしょ。アリエッタがいなくなってからも君たちに!と言う人はあと絶えないんだからさ」


『ポラリス』とはエルナ・ウェイズ・メイザ・アリエッタのチーム名のようです。最強と名高いチームのため、アリエッタがいなくなった後も、依頼が殺到していました。


「ハナコ、とりあえずはこの世界にいるわけだし、仕事一緒にやりませんか?」


メイザが花子の手を掴んで頼んできました。小さな手でしたが、子供とは思えないほど力強い手でした。あぁ、この子も戦っているのだなと感じられます。花子はそれもあって、快く引き受けました。

どうせ、現実世界に戻ればつまらないルーチンの繰り返しですから。

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