凍りの国のさいごの話
遠井 音
凍りの国のさいごの話
ある日地球に大きな大きな隕石がぶつかって、地球の位置は、それまでの周回軌道上からずれてしまいました。そのせいで地球の北半分は、人が住めないくらい寒くなってしまいました。それから何年も何十年も、何百年も経ちました。また、地球に隕石がぶつかりました。今度は、南半球まで、どこまでも寒く冷たい氷の国になってしまいました。
さて、氷の国には、十二歳になったばかりの王女がいました。王女は、王様の一人娘でした。いずれ国を統べるはずでしたが、国民はみんないなくなってしまいました。たった一人になり、王女は、しかたなく城を出ることにしました。自分以外の生き残りを見つけようとしたのです。お城にある一番分厚い毛皮のコートを着て、かばんに詰めれるだけの食糧を詰めて、いちばんだいじな指輪ひとつをコートのポケットに入れて、お城を出発します。
たいくつな旅でした。歩いても歩いても、ただ真っ白な景色があるだけでした。ペンギンもシロクマも、王女をうやまうどころか、あいさつ一つしようとはしません。最初のころ、王女は動物たちに腹を立てていました。王女は生まれつきとってもえらいので、周りの大人たちはいつも王女の機嫌をうかがっていました。それなのに、動物たちは王女に「こんにちは」とあいさつをすることもしないのです。王女はペンギンに「お手」を覚えさせようとしました。シロクマに「伏せ」を覚えさせようとしました。ですが、王女がどれだけ言葉を尽くしても、動物たちには何一つ伝わりはしないのです。
お城を出るときに王女がかばんに入れた食糧がすべて無くなりました。王女はお腹が空いて、海の中に手を入れました。魚を獲ろうとしたのです。ですが、魚たちは王女の手になんか近寄りません。すいすいと魚が泳ぎます。王女から少し離れたところから、ペンギンが海へ飛び込みました。王女は、自分も海に入ろうかと考えました。ぐっと身を乗り出して、海の中を覗き込みます。
「何をしてるの?」
後ろから声をかけられ、王女は驚いて振り向きました。そこには、つぎはぎだらけの服を着た、人間の女の子が立っていました。髪は短いけれど、顔立ちで女の子だとわかります。王女と同じくらいの年齢でしょうか。王女は目を丸くしながら、海を指さしました。とっさのことに、言葉が出てこなかったのです。
「きみ、魚が食べたいの?」
こくこくと王女は頷きます。女の子は、背中に背負っていた大きなかばんを氷の上に置きました。かばんには釣り竿が差してあります。
「このあたりは、ペンギンたちの狩場なんだ。ペンギンが上がってきたら、あたしの番」
ざぱん、とペンギンが海から帰ってきて、つるーっと氷の上を滑ります。ペンギンたちがすっかりいなくなってから、ようやく女の子は釣り竿の準備を始めました。釣り餌をつけて海に垂らします。王女は、女の子のそばに立っていました。
「ねえ、あなた、人間よね?」
「何に見えるの? シロクマ?」
王女の言葉に、女の子は冗談で答えました。王女は嬉しくて、震えました。どんなに寒くても、震えたことなどなかったのに。女の子の釣り竿が動いて、女の子が魚を釣り上げます。女の子がカゴの中に魚を入れました。
「きみも食べるよね?」
女の子が、また釣り竿を海に垂らします。王女は「いいの?」と頷きました。どうやら女の子は、王女の分の食糧も調達してくれるつもりのようです。
「もちろん。同種なんだから、助け合って生きなくちゃ」
どこか嬉しそうに女の子が言います。
「そうだ、きみ、名前は? なんて呼んだらいい?」
「わたくしは……」
王女は、ずっと「王女様」と呼ばれて育ってきました。王女の名前を呼ぶのは、父親である王様だけでした。母親のお妃様は、王女が小さいときに死んでしまったのです。
「……わたくしのことは、王女と呼んで」
「へえ、きみ王女様なんだ」
「そうよ。だから、わたくしをきちんとうやまいなさい」
「おおせのままに、王女様」
ふふっと女の子は笑いました。それから王女は、「あなたは?」と訊ねました。
「ん? お魚ならまだ釣れないよ」
「ちがいます。あなたの名前は?」
「ああ、そっか。あたしはアザレア」
「かつて地球にあった花の名前ですね」
「そう。いい名前でしょう。王女様、これからよろしくね」
にっ、と女の子――アザレアが笑います。王女は、どきんと心臓が脈打つのを感じました。
「アザレア、おなかがすきました」
「アザレア、髪をとかして」
「アザレア、たいくつだからお話をしてちょうだい」
「アザレア!」
王女は、たくさんのわがままを言いました。アザレアはいつも「はいはい、わがまま王女様」とどこか嬉しそうに返事をするのでした。
アザレアは、古い家に住んでいました。王女は最初、アザレアはペンギンにでも育てられたのかと思っていましたが、それにしてはアザレアは言葉をしゃべれるし、釣りの仕方も知っているし、遠い国のお話も知っていました。
「アザレア、あなたはどうしてひとりでここにいるの?」
ある夜、王女はアザレアにそう訊ねました。王女とアザレアは、一つのベッドに二人で眠るのが当たり前になっていました。
「さて、どうしてだろうね」
「あなたは何もわたくしに教えてくれないのね」
「そんなことないよ」
「あなたは、わたくしに釣りの仕方も教えてくれないわ」
「それは王女様が生き餌を怖がるからだろ?」
「あんなにおぞましいもの、触ることもできません!」
「ほら、そんな人には釣りは任せられないよ」
小さくアザレアは笑います。王女は唇を尖らせながら、「もういいです」と言って、アザレアに背を向けて目を閉じました。
アザレアとのふたり暮らしは、お城での豪華な生活とはまるでちがいました。自分たちで食糧を調達しなくてはならないし、ベッドは一つしかないし、おそうじも自分でしなくてはなりませんでした。けれど王女はなぜか、それらが少しも嫌ではありませんでした。お城のみんながいなくなったあとの空っぽの生活に比べれば、ここは楽園のようでした。
ある日、「遠くへ行く」とアザレアが言いました。王女はそれについていくことにしました。アザレアは大きな荷物を持っていました。アザレアは、その日に食べる分の、二人分の食糧だけを持つように言われたので、それしか持っていませんでした。
「アザレア以外の人類は、ここにはいませんの?」
氷の上を歩きながら王女はアザレアに訊ねます。アザレアの家にある靴は靴裏に滑り止めがついていて、氷の上でも歩きやすくなっていました。前を歩いていたアザレアが立ち止まり、振り向きました。
「いないよ」
なんとなく、想像していたことでした。王女は「そう」とだけ返しました。
「ここにはもう、あたしと王女様しかいないんだよ」
「この村に、という意味ですか?」
「ちがうよ。地球上のどこにも、あたしたち以外の人類なんていないんだ」
アザレアは、切なげに微笑みました。王女は、アザレアがどうしてそんな表情をするのか、少しもわかりませんでした。
「ですが、地球はとても広いのだから、まだ希望はあります」
「ないんだよ、王女様」
ゴウン、と音がしました。地面に影が落ちます。そばを歩いていたペンギンたちが、ぴゃっと逃げていきました。王女は空を見上げました。そこには、大きな大きな、銀色の宇宙船が浮かんでいました。
「……アザレア?」
「宇宙からの観測は完全だ。地球上に残っているのは、もうあたしと王女様だけだよ」
「みんな……どこへ行ってしまったの?」
「貧しい者は死に絶えた。富める者は宇宙へ脱した」
「では、わたくしは!? わたくしのお父様は、国王ですのよ!」
王女はアザレアの服をつよく掴みました。まるですがるような手つきでした。
「王様は殺された。宇宙で新しく作る国に、王という存在は必要なかったから」
淡々と、淡々と、アザレアが告げました。王女の力が抜けていきます。
「お父様は……殺された……? じゃあ、お城のみんなは……?」
「お城の人は、富める者。みんな宇宙へ行ったよ」
「わたくしは……」
「王女様、あなたはどうしたい?」
残酷な問いでした。王女は頭が真っ白になって、何も考えることができません。ふるふると力なく首を横に振り、王女はアザレアの服を掴む指をほどきました。
「アザレア、あなたは、なんのためにここにいるのですか」
「宇宙に行くのはお金がかかるんだ。あたしにそのお金はないから、ここで死ぬ日を待っている」
「あの宇宙船は……?」
「あたしが死ぬのを今か今かと待っているんだ」
アザレアが、諦めたような笑みを浮かべます。王女の頭の中には、アザレアとともに過ごした日々が去来しました。短いあいだのことでしたが、それはかけがえのない日々でした。アザレアが、まさか、死ぬのを待たれているなんて、王女は考えもしませんでした。
「お金なら、わたくしにもありません」
「王女様が最初に着ていた毛皮、あれだけで充分だよ。あれはね、今はもう絶滅した動物の毛皮だから、とっても貴重なものなんだ。宇宙統合局が買い取ってくれるはずさ」
「宇宙統合局……?」
「あの宇宙船を作った会社だよ」
低空飛行していた宇宙船が、上空高くに浮かんでいきます。ぴか、ぴか、ぴか、とライトが点滅しました。
「あたしたちがいなくなったら、地球は宇宙統合局のものになる。だから、あたしたちは邪魔なんだよ」
「そんな……」
「野垂れ死ぬ前に、王女様は宇宙統合局のもとに身を寄せたほうがいい」
「アザレアは……? アザレア、あなたは、わたくしと一緒に来てくれないのですか」
「あたしはここで死ぬよ。父さんも母さんも、じいさんもばあさんもこの氷の上で死んだんだ。あたしだけが逃げられるはずがない」
アザレアは荷物を氷の上に置き、その中から王女の毛皮のコートを取り出しました。それを王女に羽織らせます。宇宙船は二人の様子を窺うように、ぴか、ぴか、と光っています。
「あたしが手を挙げたら、宇宙船が降りてくる」
アザレアが王女の両頬を、手のひらで包みます。王女はとても苦しくて仕方ありませんでした。ふるふると首を横に振り、アザレアの手をぎゅっと握ります。その手が、挙がってしまうことのないように。
「アザレア、二人でともに宇宙船に乗りましょう」
「宇宙船の乗車賃はとても高いんだ。あたしには、とてもじゃないけど手が届かない」
王女は、毛皮のコートのポケットから、指輪を取り出しました。お城からひとつだけ持ってきた、いっとうたいせつな指輪です。
「お母様がわたくしに遺してくれた指輪です。これを使えば、アザレアも宇宙船に乗れますよね?」
「だめだよ、王女様。たいせつなものなんだろう?」
「死んだ人は還ってきません。アザレア、わたくしに、あなたを失わせないでください」
王女は必死でした。どうしたって、王女には、アザレアが必要だったのです。王女はもう、アザレアのいない世界でなど生きていかれないだろうと確信していました。王女の目から、涙がこぼれます。ぱた、ぱた、と雫が氷の上に落ちていきました。
「好きです。アザレア、あなたのことが、好きなんです。あなただけを、愛しています」
肩を震わせて泣く王女に、アザレアは目を丸くして、それから、くしゃっと笑いました。仕方ないな王女様は、とでも言いたげな笑みでした。
「そこまで熱烈な告白をされて、断れるほどあたしも野暮じゃないんだよね」
アザレアは、王女の髪をくしゃくしゃっと撫でました。王女は、アザレアの言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかりました。ぽかんとした顔をしていると、アザレアが笑い、「変な顔」と言いました。
「一緒に行こう、王女様」
アザレアが手を挙げます。ごうん、と宇宙船が近づいてきました。ぴか、ぴか、ぴか、ぴか。宇宙船の光が明滅しています。王女にはそれが、まるで祝福の光のように見えました。
そうして地球上には、人類は一人もいなくなってしまいました。後にはペンギンやシロクマだけが残されています。
残されたペンギンのうちの一羽が、時折、ぴーっと笛のような甲高い声で鳴くことがあります。もしかしたら、王女とアザレアを、探しているのかもしれません。
凍りの国のさいごの話 遠井 音 @oto_toi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます