第54話 私の心のドロドロ1


 お爺ちゃんの空手道場で、サンドバッグに蹴りを入れる。

 布の切れ端がギチギチ煮詰まったサンドバッグがダメージを吸収して、縦に揺れた。

 私は考えている。

 サンドバッグに蹴りをぶち込みながら、むしゃくしゃする思いを晴らしつつ。

 桐原銭子と、藤堂破蜂について。

 友情と恋愛を天秤にかけるとするならば、どちらが重いのだろうか。

 そんなことを考えている。

 少なくとも――きーちゃんにとっては、私との友情よりも藤堂さんとの恋愛を選んだのであろう。

 その選択により、私との友情は完全に破壊された。

 そして二度と元に戻らない。

 そのことはわかっていたはずだ。

 だが、桐原銭子は恋愛を選んだ。

 少し、悩んでいる。

 私が選ぶとすればどちらに傾くのだろうか。

 友情か、それとも恋愛か。

 どちらをとるか?

 そんなことをテーマにした作品があった。

 夏目漱石の「こころ」だ。

 主人公の「先生」は友人である「K」からの恋愛相談を受け流し、友人に何一つ相談することを、自分も同じ人を愛したことを打ち明けることもなく、二人が惚れていたお嬢さんに先にプロポーズして恋愛を成就させた。

 まさに今の状況と何一つ違いが無い。

 違いがあるとすれば、その後友人である「K」はそのことにショックを受けて自殺してしまうことであるが。

 当然、私は自殺などしない。

 当てつけに自殺をしたり、泣き寝入りするような惰弱では無いのだ。

 そのようなことをするならば、略奪を選ぶ。

 そうだ、藤堂さんの略奪だ。

 だが、どのようにして、どんな方法で略奪するか。

 それとも友情を優先することで諦めるか、という問題があった。

 サンドバッグの揺れが収まり、私はそこに掌を当てた。


「・・・・・・友情と恋愛、か」


 果たしてどちらが重いのか。

 その問題だけは、念を入れて考えねばならぬ。

 きーちゃんとの友情が重いとするならば、話は簡単である。

 藤堂さんを諦めれば良い。

 そうすれば、きーちゃんは謝罪しながらも、私との友情を取り戻すであろう。

 しかし、しかしだ。

 果たしてそこまで友情には重い価値があるのか?

 私は甘かった。

 私は今まで勘違いをしていたのだ。

 親友は裏切らないと。

 少なくとも竹馬の友である桐原銭子だけは裏切らないと。

 結果はどうだ。

 人は裏切るのだ。

 あれだけ――あれだけ、借用書と念書の取り扱いにこだわった藤堂破蜂という男が何もかも正しかった。

 人は平気で友人であろうとなんだろうと、裏切れる生き物なのだ。

 私は自分の愚かさを、心底嘆いている。


「・・・・・・」


 もう一方で、私は未だにきーちゃんとの友情を忘れられないでいる。

 仲直りしたいとも考えている。

 だが、果たしてそれは愛情より重いのだろうか。

 藤堂さんへの思慕よりも価値があるのか?

 こうなってしまっては、酷く怪しいものだ。

 恋愛について考える。

 藤堂さんのことだ。

 彼について考えると、どうも生唾が出てきてしまう。

 その唾を飲む。

 何も出来ないから、何も手に入らないから、お酒を飲める年齢でさえないから、唾を飲む仕草をした。

 あれから時間だけが過ぎていく。

 私という人間を、雲丹亀晴子を置き去りにして、青春の時間が過ぎていくのだ。

 冬が去り、学校の年度が終わりて、春が来る。

 いつものように、藤堂君が何か変な世の中舐め腐ったことを口にして、きーちゃんが窘める。

 そんな光景を眼にできた。

 ああ、そうかと。

 それを見て理解できることはいくつかある。

 きっと、きーちゃんは私よりも早くに藤堂さんのことが好きだったのだろう。

 いつもの彼へのツッコミや、からかいや、指導や、難癖全て含めて。

 あんなにも優しさに溢れているでは無いか。

 もっと私を見てくれと。

 私だけを見てくれと、精一杯にアピールしている。

 彼女の全ての行動が、藤堂さんからの好意を勝ち取るために前提としてあることなどは、一目瞭然であるのだ。

 私の方が、後で横から掻っ攫いにきた邪魔者にすぎなかったのだろう。

 それはわかる。

 わかるが――私だって負けてはいないぞ。

 藤堂さんを見ていると、一人の男が育っていくのを日に日に感じる。

 まるで卵からまだ孵化せぬ有精卵を見ているときのように、不可思議な高揚を覚えるのだ。

 アレは良い男になると思う。

 今は幼稚で、無邪気で悪辣な、時には酷い偏見混じりの罵倒さえ口にする男であるのだが。

 高校を卒業する頃には、きっと良い男になっている。

 誰に頼まれなくても、桐原がそうするだろう。

 赤ん坊の歩行器のような真似事をしてまで。

 藤堂破蜂という男を、桐原銭子が満足いくところの存在まで導くだろう。

 だが、それは――


「私でもいいはずだ。隣にいるのは私でも」


 自分に問いかける。

 彼は未成熟だが誠実で、自らのプライドを自分でへし折れ、失敗について反省できる。

 自分の中に芯がある。

 どのような困難があっても、自らの甲斐性で乗り越えられる男なのだ。

 私は藤堂破蜂という男を知った。

 救われもした。

 だから、その御礼といってはなんだが、私好みの男に今から育ててやろう。

 そして丸ごと頂こう。

 私なしではいられなくしてやろう。

 ミニスカートに手を誘い込もう。

 尻を撫でさせ、口づけをしよう。

 それ以上のことを『しても』いいし、『させても』いい。


「私でもいいはずなのだ。きーちゃんでなくてもいいはずだ!」


 独白を繰り返す。

 生唾を飲む。

 夏目漱石の「こころ」を再び思い出す。

 「K」は、結局の所何もかもを間違えたのだ。

 精神的に向上心のない者はばかだ。

 そこのところを最後まで履き違えたのだ。

 最後まで、恋愛は道を外れる行為に過ぎず、自己修練にとって邪魔なものと捉えていた。

 恋愛は人世の 秘鑰なり。

 恋愛ありて後人世あり。

 恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ。

 詩人である北村透谷の言葉だ。

 恋愛至上主義、いい言葉じゃあないか。

 真実をついている。

 そうだ、私は今気づいたのだ!


「私は藤堂さんに会うために今まで生きてきたんじゃないのか?」


 何もかもが運命であったのだと思う。

 私を侮蔑しているだけの男が成長し、泣く私の隣に座り、心配そうな顔でのぞき込んできたのも。

 その成長こそが、仮にきーちゃんのおかげであったとしても。


「この出会いこそが運命だ!!」


 きーちゃんが育ててくれたのは、感謝しよう。

 礼の言葉だって言ってもいい。

 だが、ここからは私が貰っていく。

 それだけ裏切りを、きーちゃんにはされたのだから、私にはその権利がある。

 そうだ、あの藤堂さんを貰う権利が私にはあるのだ。

 はは、と小さく笑う。

 笑い声が大きくなる。

 ふざけているし、舐めているのだ。

 あの女、こんなことで私が諦めると思っているのか?

 桐原は、きーちゃんは、そこまで私のことを嘲っているのか?

 そうではないだろう。

 クラスメイトであるのだ、時々、通りすがりに廊下ですれ違う事がある。

 そんなときのきーちゃんはいつでもビクビクとしていて、少し面白い。

 あれは、私に罪悪感を抱いているのでは無い。

 少しはあるかもしれないが、大事なのはそんなことではない。

 いつ、私に藤堂さんを奪われるのかをビクついているのだ。

 そうさ。

 奪うさ。

 惚れた男の奪い合いなのだ。

 淑女協定もなしに、奪い合いに持ち込んだのはきーちゃんの方なのだ。

 どんなえげつない方法を使って、何をしても文句を言われる筋合いは無い。

 ずっと考えているのだ。

 きーちゃんは、えげつないことをした。

 きっとそれだけの価値を、藤堂君に見いだしていたのだろう。

 私にとって、藤堂さんはそこまでの価値があるだろうかと――

 あるさ。

 そう胸を張って言える。

 この雲丹亀は、桐原銭子との友情を完全に破綻させてまで、男を得たいと思っている。

 同時に――


「なんで裏切ったのさ」


 どうしようもないほどに、きーちゃんとの友情を復縁することも願っている。

 この短い三ヶ月にも満たない時間は地獄であった。

 親友がいない。

 自分の無二に等しい友人がいない。

 それはぽっかりと胸に穴が開いたような感覚であった。

 地獄の釜が開いたような――馬鹿馬鹿しい、レズでもあるまいし。

 そんなつもりはない。

 そんなつもりはないのだが。

 どうしても、奪うことを決意しても、拭い去れぬ友情が残っていることもまた事実だった。

 だが、もう決めた。


「私はやることやるだけさ。精神的に向上心のないものは馬鹿だからね」


 私は藤堂さんへの告白を決行することに、今日決めたのだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る