第49話 去年の真冬のこと1

 蟻のたかっている、蝉の死骸を見つめている時のような。

 時々、そんなぼーっとした気分になることがある。

 むしろそれが平素の状態で、いつかの真冬に。

 桐原に抱きしめられる前の俺は、ずっとこうであったのかもしれないなと、ふと、首を傾げて悩むことがある。


「何ですか、藤堂さん。野リスに生きたまま食べられている蝉みたいに間抜けな顔をして。昔の藤堂さんみたいにぼーっとしてましたけど」


 どんな面だよ。

 雲丹亀に怪訝な表情を返す。


「アメリカの公園だと、でっかい野リスが蝉を生きたまま捕まえて、スナック菓子のように食べているとボブが口にしていました。狂犬病のリスクがあるから、可愛くても絶対に触るなと」


 怖いなアメリカの野リス。

 日本でも狂犬病問題はあったが、撲滅政策により忘れられて久しい。

 父が子供の頃の時などでは、野良犬に追いかけられることも珍しくなかったと聞くが。


「まあ藤堂さんなんか生まれついての狂犬(マッド・ドッグ)みたいなものですし、狂犬病に罹患しても大差ないかもしれませんがね」

「いや、普通に死ぬと思うが」


 どうでもよい会話を重ねながら、さてといい。

 ちょうど桐原が某ミンメイ氏に学校設備を案内してくるなどと言い、この場にいないので聞くのだが。

 

「真面目な話をするが、どうして雲丹亀は俺の事なんかを好きなんだ?」

「え、今更その話をします?」


 するよ。

 俺は未だに状況を理解していないのだから。

 なんでお前は俺の事が好きなんだ。

 おそらく、それは何かとんでもない誤解から来るものでしかない。


「一応お聞きしますが、屋上で一人泣いていた女の子の事すら忘れているとか?」

「それは記憶している」


 お前の事だ。

 雲丹亀晴子の事だった。

 一年の三学期に、確かに雲丹亀はうずくまって屋上で泣いていた。


「じゃあ普通わかるでしょうに」


 何故か、少しだけ悲しそうな声色で雲丹亀は呻いた。

 多分、彼女は世間的には間違っていないのだろうと思う。

 変なのはきっと俺の方で。

 蟻のたかっている、蝉の死骸を見つめるような。

 そんなぼやっとした脳みそで、少しだけ真剣に考えるのだが。


「そんな御大層な事をした記憶がないんだが」


 俺の記憶では、少なくとも雲丹亀が惚れるような行為ではなかったはずである。

 あれは一年の三学期のことであったが。

 たとえ俺でなくても――例えば、彼女の親友である桐原であれば、どうとでもしたであろうと思う。

 当時は赤の他人である俺などが、入る余地は本来無かったはずだ。

 いや。


「たまたま、屋上でコーヒーを飲もうとしたら、泣いている雲丹亀がいて。俺がそこに通りかかっただけだ」


 あれだな。

 多分、俺は余計な事をしたのだ。

 あの出来事は桐原などに伝えてやれば、もっと上手く片付けてやったことであろうことは明らかだ。

 俺の出る幕など、そもそも無かったのだ。

 もし雲丹亀が俺のしたことを『借り』だなどと思っているのであれば――本当に余計な事をしてしまった。

 そう思ってさえいる。

 そう口にすると。


「ヒャア!」


 突然に足を蹴られた。

 空手有段者の蹴りであるが、丸太のように太い俺の足はびくともしないのだ。

 むしろ、雲丹亀の足の方が気になるくらいであった。


「……大丈夫か?」

「最近はお爺ちゃんのところで鍛えているので、問題ないですよ」


 女の子なのに、脛が硬くなるのがたまに傷ですけれど。

 そう雲丹亀は口にして、二―ソックスの脛のところを撫でている。


「お爺ちゃんは、藤堂さんがあんまり来ないことを気にしておられましたが」

「確かに、たまに来なさいとお誘いは受けたが。俺は空手を真剣にやる気がないと、以前にお伝えしたはずだが?」

「いやー、その肉体を何にも使わないというのは勿体ないと思いますが」


 雲丹亀が人差し指と中指で、俺の腹を刺す。

 何度も刺突するが、俺の腹筋はびくともしなかった。

 なんで桐原といい雲丹亀といい、無駄なボディタッチが多いのだろうか。

 それも暴力的な。

 

「アレです。二人でお爺ちゃんの空手道場に出向いて、汗をかいたりしません? そしてお爺ちゃんを喜ばせてあげたりしてくれません?」

「俺は敬老精神をあまり持ち合わせていないが」


 雲丹亀のお爺さんの事を考える。

 テナントジムでもなく、大きな平屋の空手道場を運営していて、俺は雲丹亀の件で以前に出向いたことがある。

 あの老夫妻は、元気にしておられるだろうか?

 まあ、週に一度ぐらいなら通ってもよいが。


「自分は、自分は、と自分の事ばかりを考えていないで。他人のために動くというのもたまには悪くない」


 雲丹亀のお爺さんが喜ぶというなら、空手をやってみるのも悪くはなかろうと思うのだ。

 競技者として真剣にやろうとは思わないが。


「そこですよ。そこ」


 ぐに、と俺の腹の肉が制服のワイシャツごと、雲丹亀の親指と人差し指の間で挟まれた。

 その行為に何の意味があるのかはわからないが、雲丹亀は少しだけ楽しそうにしている。


「その何の下心もなしに、私を助けてくれた利他的な行動に対して、このうにちゃんは藤堂さんに恋をしたんですよ」

「だから、そこのところを理論立てて説明してくれなければ、わからないのだがな」


 俺はため息を吐いたが。

 

 笑顔の雲丹亀を見ると、どうにもそれ以上の追及は出来なくて。


「わからないというなら、まだ、わかんなくていいです」


 俺の躊躇いも一笑の下に付されてしまったので、大人しく口を閉じた。

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