第34話 朝の六時半に

 長い夜が明ける。

 桐原が隣にいることで俺が寝ぼけて手を出さないかと。

 恐怖心と不安感に苛まれ、頭痛さえしていたが、何とか眠りに落ちたようである。

 枕元の目覚ましは午前六時半を指していた。

 昨晩の出来事は夢ではなかったらしく、桐原の香りがベッドの中には漂っている。

 半身を起こすと、桐原は部屋にいなかった。

 耳を澄ませば、キッチンの方角からフライパンでソーセージを焼く音などが静かに聞こえている。

 本当に囁くようにだが、母と桐原の声も拾えた。

 おそらくは母の調理を手助けするため、桐原はとっとと起きてキッチンに向かったのだろう。

 桐原はそういう細かい要所におけるポイント稼ぎが巧みなのだ。

 そのせいで、なんで私の息子みたいなクズを桐原ちゃんは好きになったのだろうねと、母は本当に不思議そうに口にする。

 俺はその度に傷ついた。

 お前の旦那のせいだよ、桐原は俺なんかと好きで付き合っているんじゃないよと、何度言いたくなったものか。


「さて」


 もう起きてキッチンに向かってもよいが、やることがあった。

 雲丹亀であった。

 別に桐原と同じことをしろなどとは言わないが、一人いつまでも寝ているのはどうなのか。

 俺の寝袋でグースカと寝ていたようだが、半覚醒の状態であり寝言などもつぶやいている。

 うにゃうにゃなど、何か猫語のような呟きもしていたが、急に何か明瞭に叫んだ。


「藤堂さん。そこは入れるところの穴ではありません! 違う穴ですよ!!」


 良くは判らないが、俺にとって不名誉な夢を見ていることだけは間違いない。

 メイクの完全に落ちた雲丹亀の顔は美しく、その寝顔も見惚れるものがあった。

 なれど、目を瞑って必死に抗いながら、夢の中の俺に厳しく何かを言い聞かせている姿はシュールそのものである。


「起きろ、雲丹亀。俺の寝袋を返すんだ。そして俺に不名誉なことを叫ぶのは止めるんだ」


 寝袋の上から肩のあたりを揺すって、優しく起こそうとする。

 雲丹亀は手も出せぬ寝袋状態のままで、露骨に何かをむずがってジタバタとしている。

 だが寝袋なので、まあ別に何ができるわけもない。

 近年では絶滅しかけているミノムシのようにして、床で地を這うだけである。


「藤堂さん、拘束プレイは私あんまり好きではありません。手や足に手錠を嵌めるのはきーちゃん相手にしてください。あれ、べーちゃん? ちゃんと手錠をしたのに拘束を力任せに壊すのはやめてください」


 どんな夢を見ているんだコイツは。

 俺がお前を殴りたくなる前に目覚めるのだ、雲丹亀よ。

 力強く揺さぶって、軽く顔などを平手で叩いては覚醒を誘引する。

 むにゃむにゃとつぶやくだけで、やはり寝ている。

 どれだけ起きないんだよ。


「雲丹亀」


 顔を近づけて、覆いかぶさるような姿で名前を囁いてやる。

 雲丹亀は窓ガラスから差し込む日光を、俺の影で遮られたことを嫌ったのか。

 それとも、鼻を俺の指でつままれていることで呼吸困難が生じたのか。

 これが駄目なら、寝床のミネラルウォーターをタオルにかけて顔面を覆うしかないと考えていたのだが。

 ようやく雲丹亀は起きて、目をぱちくりとしながらに呟いた。


「ここはどこ? 私は誰?」

「ここは俺の部屋で。お前は雲丹亀だ。名前は知らん」


 正直なところを言えば、苗字はともかく名前は知らない。

 一年生のクラス自己紹介の際に聞いたはずだが、興味もない相手の名前など知るわけもなかった。

 なぜ名前すら知らない女の子を部屋に入れてるんだと言われそうだが、俺が入れたわけでもない。

 勝手に入ってきたんだコイツは。


「え、名前すら知らないの? 嘘でしょ?」

「嘘ではない」


 寝袋に包まれて、顔だけを出したままで雲丹亀が呻いた。

 俺を睨みつけ、お前を殺すぞ、とでも言いたげな顔をしている。

 むしろ俺の方がお前を殺してやりたいのだが。

 なんで名前も知らない美少女に、夜這いなんぞをされねばならんのか。


「あの、藤堂さん。私たち、それなりに色々あったよね? 私の方では藤堂さんを好きになるほどのイベントがあったんだけど」

「俺の記憶にはない」


 雲丹亀は何故か俺を睨んでいる。

 だが、まあ知っていたと。

 どうしようもない人だからなあ、と何処か俺を見下したかのようにして、諦めて唇を動かした。


「晴子」


 雲丹亀は名を呟いた。

 おそらくは彼女の名前だろう。

 簡素で良い名前であった。


「晴れの日の子と書いて、晴子です。よく覚えておいてね」

「そうか。雲丹亀に似合った名前だと思う」


 名は覚えた。

 おそらくは忘れないと思う。

 深夜に突撃されて、寝ている間に何かされた挙げ句、ソロキャンプ用の寝袋を勝手に取り出される被害を俺に与えて。

 俺に起こされるまでは、変な寝言を呟きながら床でグースカ寝こけていた女の名前だ。

 さすがに忘れないと思う。


「……起きますので、寝袋のファスナーを開けていただけませんか?」

「それぐらい自分で開けろよ」


 どこまで怠惰な人間なのだ、雲丹亀というやつは。

 そう愚痴りながらも寝袋から叩き出そうと考えるが、少し待て。

 俺は昨晩の深夜二時に、桐原に一つの罠を仕掛けられた。


「……」

「どうしました? 早くファスナーを開けてください」


 雲丹亀は、桐原と少し似ているところがある。

 小学生の頃から10年間を過ごした仲だ。

 調子のよいところ、ヒャアという妙な口癖、暴力的なところ、人を殴っても許されると思っているところ。

 美少女としての魅力の使い方。

 人として許されざる罠の仕掛けかた。

 全て桐原と同じパターンなので、気づくところがある。


「雲丹亀、一応聞くが服はちゃんと着ているのか?」

「私は裸じゃないと寝られないんです」

「なるほど」


 俺は目線を横にやる。

 ベッドの下に、綺麗に折りたたまれた雲丹亀の制服が隠されている。

 明らかに意図的な罠であった。


「俺がお前の裸を見たとしたらなんとする?」

「私から責任をとれとまではいいませんが、たぶん真面目な藤堂さんのことですから。まあ罪悪感と同時に、どうしても雲丹亀晴子という美少女の裸を今後は意識せざるを得なくなるのではと思いまして。理想はこの場で欲望におぼれて、この場で私を押し倒すことです。その場合はちゃんと責任をとってくださいと泣きます」

「なるほど」


 雲丹亀は酷い奴だった。

 そして、桐原のように陶器じみた美少女とは違い、肉感的な女子高生としての魅力にあふれた美少女である。

 俺としても、それだけは認めているところだ。

 立ち上がり、言い捨てる。


「俺は部屋を出る。ダイニングキッチンにて、家族で朝食をとる予定だ。30分以内に服を着ておけ」

「ヒャア! 畜生! 今回が最後の雲丹亀ちゃんだと思うなよ! 正義は何度でも立ち上がる!! 必ずや、次こそ二度目の雲丹亀が藤堂さんを……」


 ジタバタと寝袋のままで、雲丹亀が起きたまま寝言をほざいて暴れている。

 俺はそれを冷たく見下した後に、部屋のドアに手をかけて部屋から出た後に。

 とても大きなため息を吐いて、閉じたドアにもたれかかった。

 なんなんだろうか、あの変な美少女は。

 俺は彼女が部屋にいる理由が、どうにも理解できなかったが。

 一つだけ気になることがある。


「今さっきまでの会話、誰かに聞かれてないよな」


 隣室でまだ寝ているであろう、父親に聞かれていないか。

 それだけを恐れて、俺はキッチンに向かうことにした。

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