第二章 雲丹亀編
第33話 深夜二時は丑三つ時
ミルクと、糖蜜と、泡立つシャンペンを混ぜたような香りが漂っている。
寝汗の匂いだった。
この匂いが、惚れた女のそれと知ったのは今が初めてである。
高密度連続スプリングで出来た高級マットレスの上で、身長2mの巨躯で寝返りを打った際に気づいたのだ。
部屋に漂わせた沈丁花と金木犀のルームフレグランスではなく、女の性フェロモンに満ちた甘い香りが鼻孔をくすぐっているのだと。
どうしてと、寝惚け眼を少しだけ開いてみれば、桐原が私の横で眠っていた。
目を閉じ、健やかな寝息の音だけが、ささやかに耳元に響いている。
「……」
俺はそこで驚愕こそしたが、絶叫することもしなかった。
なにせ半分頭は寝ているような状況であったし、おそらくは桐原を起こしたくないという心理もあったのだと思われる。
ともかくも、俺は心臓が止まりそうになりながらも桐原を見て。
「いつ入ってきたんだよ」
素直に疑問を口にした。
ベッドフレームの枕元についている棚の目覚ましを見れば、深夜二時を表示している。
充電機のスマホスタンドを見るが、着信履歴は無いようであった。
いつもの桐原ならば、少なくとも夜十二時までには訪ねてくる旨の電話をかけてくるはずだ。
そもそも、俺が住んでいるタワーマンションには招待が無ければエントランスフロアにすら入れない。
だから俺以外ならば、父か母の許可が必要なのだが――
通すだろうな。
父や母は、俺と桐原が性的な関係にすら至っていると思い込んでいる。
その関係にはとやかく口出しするつもりはなく、両親はもうどうしようもないくらいに桐原の事を気に入っていた。
むしろ、母などは桐原ではなく俺の方に忠告をするのだ。
『勢いに駆られて、桐原さんの好意に甘えて、あんまりにも酷いことはしないで。彼女は人間であり貴方の性欲発散のための玩具ではない。まだ高校生なのだから避妊はしっかりするように。もし間違って妊娠させてもお金はあるんだから、男として責任はちゃんととって育てるように』
人生で初めて目にする、母の厳しい顔だった。
母の中で、俺はとんでもないセックスモンスターと化していた。
男としての自制心が欠片もなければ良心とてない、快楽のためなら何でもしていいと思っている野獣と化しているのだから。
何を説明したところで無駄だった。
それにしても桐原だった。
お前はなんで深夜二時に、俺のベッドに潜り込んで横で寝ているのか。
いつもの制服姿ではなく、パジャマなども着ない主義のようであり、下着である質素なナイトブラとショーツのみの姿で眠っている。
肌が見えた。
真白い肌であり、陶器のようで余計な脂肪などは張り付いていない肢体だった。
心臓がバクバクと鳴っている。
目覚めた時の驚きとはまた違う高鳴りである。
だが、性的な興奮とも少し違った。
何か、とんでもない美術品を目にした際の興奮に近いように思える。
例えるならば、父が投資用に所有していた茶道具を、よりにもよってオークションに出品する前日に、度胸試しとして俺に使わせたときのような――あの茶道具は最終的に海外オークションで億の値がついた。
そうだ、おそらくはやったこともない賭博に似た興奮とストレスに襲われているのだ。
手に触れて。
手に触れて、それで傷つけでもしたら全てを失うのだと。
俺の眼前には眠っている下着姿の桐原が居て、俺はそれに少しだけ手を伸ばそうとして。
そうすれば、俺にとっての全てを失うのだと気づいた。
父や母からの評価などどうでもいい。
俺の小さなプライドも、積み上げた信用もどうでもよかった。
それをすれば、おそらく桐原は表にも出さずに、俺の事が嫌いになるだろうと思ってしまったのだ。
父の権力を用いて、桐原の肌に触れて、彼女の尊厳を侮辱して傷つけるのだ。
桐原に嫌われるくらいならば、それこそ死んだ方がマシだった。
「……」
俺の手は、酔いどれの老人のように震えている。
ぞっとするような賭博者の伸るか反るかにも似た興奮を抱いて、桐原に手を伸ばすのを躊躇っている。
別に、彼女を性的に無茶苦茶にしたいとかそんな欲求ではない。
俺が手を伸ばし、桐原の唇を親指でなぞるだけ。
それだけ。
そんな些細な事をしたいという欲求がある。
俺は震える手をどうにか押さえようとして、出来ず、そうして。
臆病者のように、億の額がする茶道具を慣れぬ手つきで握ったようにして。
蝋のように白い肌、青ざめた表情、震える手で桐原の唇に、指で触れようとして。
静かに止めた。
俺は桐原銭子という人物が、どういう性格なのかに思い至ったのだ。
「起きているだろ桐原」
俺は正解に至ったのだ。
「何故気づいた、藤堂君!」
桐原はカッと目を見開き、何故気づいたのだと本当に不思議そうに叫んだ。
ぶっ殺すぞお前。
「お前は俺を何だと思ってるんだ?」
全身全霊で、同時に静かに本心を口にした。
桐原は俺の事を何だと思っているのだ?
彼女にそんな意思がない事は知っている。
俺のことなど、この俺のことなどは少しも好きではなくて、ただ俺の父からの生活援助が理由で仕方なくも俺に付き合っていることなど理解しているのだ。
だからこそ、俺はお前に少しも手を出そうとしないんじゃないか。
「愛してますよ! 藤堂君がプライドも尊厳も何もかも投げ捨てて、私を手に入れようとする瞬間をいつでも願っています。藤堂君が何もかもがどうでもいいと私を求めた瞬間に、私は貴方になら何もかも委ねていいと思ってますよ!!」
嘘吐きめが。
俺は悲しくなった。
「なんでお前は俺の横で寝ている?」
何もかもの意志が萎んでしまい、とりあえずは現状把握に努める。
ともかくも、桐原が隣で寝ている理由が知りたかった。
「うにちゃんもいますよ」
俺は辺りを見回すが、少なくともベッドの中にはいない。
半身を起こして、周囲を見渡すと。
確かにいた。
俺のソロキャンプ用の寝袋を引っ張り出して、グースカと寝ている。
横にいて欲しいわけではないが、なんで俺のベッドで一緒に寝ていないのだろうか。
メイクも完全に落としていて、それでも雲丹亀は超美少女だった。
本当になんでお前は、いつも意味のないメイクをしているのだろう。
「うにちゃんも最初はベッドで寝ていたのですが、藤堂君に蹴り飛ばされて床に落とされて、寝袋で寝る選択をしました」
それは悪いことをしたが、そんなもん勝手にベッドに入ってくる方が悪い。
俺のベッドは特注サイズで大きいが、別に横に長いわけではなく縦に長いだけなのだ。
三人も入れるサイズではない。
「桐原も雲丹亀も、どうやって俺の部屋に入ってきたんだ」
「はあ、お義母さまが入れてくださいましたよ。前から電話番号は知っていたので、電話をしたら普通に許可を頂けました」
二人がかりならば、さすがにあのどうしようもない性欲の化け物による蹂躙も免れるでしょうと。
俺の母がそう言っていたと桐原が呟いて、おれは傷ついた。
あの母は、俺が桐原と雲丹亀を二人同時にまわして酷いことをするとでも思っているのだろうか。
「もう寝る」
俺は起こしていた半身をベッドに下ろして、眠ることにした。
もはや横で寝ている下着姿の桐原も、床で寝袋に包まれて健やかな眠りについている雲丹亀も。
何も気にならなかった。
「藤堂君、一つだけ言っておきたいことがあります」
「なんだよ」
俺は桐原が俺の腹を指でなぞるのを無視して、つとめて下着姿の桐原を意識しないようにしながら。
「男性は眠っている間は性的刺激による勃起をしないんです。勃つことはありますが、それはただの生理現象であり、性的興奮や刺激によるものではないため残念ながら持続はしません。それだけは知っておいてください」
なんというか、どうでもいいというか、それ本当の事なの?
という微妙に知識欲をくすぐることを呟いたので。
俺は少しだけ考えて、返答したんだ。
「桐原と雲丹亀は、俺が眠っている間に何をしたんだ?」
返事はなかった。
桐原は背を向けて、寝始めた。
俺は背中に対して思いきりビンタをしてやりたくなったが、桐原の肌に触れるのが怖くて、辛うじてそれを止めた。
俺は諦めて、もう一度寝ることにした。
血肉が廻った生々しい桐原の存在が横にいることを無視して、なんとか無視して。
どうにか朝まで眠れることを心の底から祈った。
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