第7話 鳩と桐原3


「ヘイヘイヘイ!」


 ぱんぱんと、桐原が俺の腕を叩く。

 時々無駄にテンションがハイになって止まらなくなるのが、桐原の悪いところである。

 だがその悪徳も、残念ながら桐原においては一つの魅力であることを認めざるを得ない。

 俺は彼女が無意味にテンションを上げること自体には、それほどの嫌悪はなかった。

 ため息をつきながら、静かに文庫本を閉じる。


「無視しないでくださいよ。高等遊民(ブルジョワジー)は文学に夢中で、無産階級(プロレタリア)である美少女からのアプローチには答えられんというのですか」


 桐原は寂しがり屋なところがあり、無視されるのが嫌であるのだ。

 仕方なく相手をしてやる。


「桐原、俺はお前と付き合うつもりはない」

「ええ、前に振られましたからね」


 そうである。

 私は以前に桐原から交際を前提とした愛の告白を受けているが、それを拒否していた。

 その理由については今更であり、この場で語るべきではない。

 今大事なことは、ちゃんと桐原が交際を断られたことを認識していることだ。


「なぜお前は恋愛関係に無い男にキスをせがむ?」

「鳩がキスしていたからです。あの畜生めどもに人として、愛の素晴らしさを見せつけてやらねばなりません」


 びしっ! と鳩のつがいを指さした。

 二匹の鳩はこちらを見ていて、クルッポーと鳴いた。


「ええ……」


 俺と桐原は交際していない男女であり、ただのクラスメートである。

 それはそれとして鳩が私たちに見せつけるようにキスをしていたから、私たちもキスをすべきだと。

 鳩如きに馬鹿にされるわけにはいかねえ! 人間の素晴らしさを見せてやるぜ!

 そのようなことを平然と呟く。

 桐原は頭がおかしいのだろうか。

 いや、もう明確におかしいのはよくよく理解しているのだが。


「お前は誰とでもそんなことをするのか?」

「いえ、運よく藤堂君が横にいたからであり、他のこの世全ての男などは貧弱なるゴボウに見えます。藤堂君でっかくてよいですね」


 ぱんぱんと、俺の体を叩く。

 誉めてくれるのはよいのだが、世間の流行はめっきり中性的な容姿を持つ線の細い男性である。

 俺は自分の容姿があまり好きではなかった。

 自分の体で秀でたところなど、クルミを二本の指だけで挟んで潰せるぐらいである。

 ちなみにこれをやると、誰もがドン引きする。

 まあどうでもいい話だが。


「それに金持ってますし! 男は経済力ですよ! 金持ってない奴は人間扱いされないんですよ!!」

「俺が稼いだ金じゃないんだがな」


 確かに家は超富裕層であるが、それは先祖が大成功を収めただけである。

 親のおかげで恵まれた環境にいることは十二分に理解しているが――その、なんだ。

 自分で稼いだわけではないそれが、俺の自尊心を肯定してくれるわけではないのだ。


「金さえあれば飛ぶ鳥も落ちるんですよ。ばーん! ばーん!」


 これで色々と悩みは尽きないのだが。

 まあ、鳩のつがいを指さしては「死ね! 死ね!」と連呼している明らかに人としては駄目な桐原を見ていると、何が言いたかったのか忘れてきた。


「クッソ、あの鳩ポッポども死にやがらねえ。私は貧乏人なので鳩を殺せませんでした。金持ちの藤堂君がやってください」

「いや、俺がやっても死なないと思うが」


 『金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる』という言葉は確かにあるが。

 それは諺であり、本当に殺せるわけではない。

 そんなことは桐原もわかっているはずなのだが。


「いいから、やってください! ばーん!!」

「お前、あの鳩さんに何の恨みがあるんだよ……」


 鳩のつがいは仲良くクルッポーと鳴いている。

 心なしか、桐原を酷く哀れんだ瞳をしているように感じた。


「もう後には引けないんです。藤堂君とキスをするか、あの鳩が死ぬか。運命の選択ができてしまいました。そうすることでしか、私はあの鳩に対して人間の尊厳を保てないんです。わかってください愛しい人」


 いつの間に桐原はそこまで追い込まれてしまったのだろう。

 俺は悲しくなった。

 桐原が売店にソフトクリームとキャラメルマキアートを買いに行っただけで、このような悲しいドラマが生まれてしまったというのか。

 俺の財布から一枚消えた野口英世さんに罪があるというのか。

 もちろん一切そんなわけはなく、桐原がちょっと頭おかしいだけである。

 これで桐原が学年一位の成績を誇る特待生という事実に関しては、本気で信じがたいものがある。

 我らの学年全ての知能は、桐原に劣ることが証明されていた。

 なにもかもが本当に悲しかった。


「ともあれ」


 いいかげん、ふざけているわけにもいくまい。

 今日中に本を読むノルマをこなさねばならぬが、桐原の望みを叶えてやらねば騒がしさはやまぬ。

 満足のいく選択肢を選び、結末を与えてやらねばならない。

 キスをするか。

 鳩を殺すか。

 『三千世界の鴉を殺し 主と朝寝がしてみたい』という都都逸はあるが、俺は桐原と寝る気など無い。 

 ならば答えは簡単である。

 指でピストル、口で発射音を。


「ばーん!」


 俺は鳩を撃つそぶりをした。

 鳩のつがいはどうということもなく、クルッポーと鳴いている。

 『金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる』という諺は、単純に現実には適応されないこと。

 それが眼前にて証明されたのだ。

 満足か、桐原。

 少女の横顔を眺めようと、顔を向ける。

 桐原は、うーん、と可愛らしく首を傾げた後に。


「死にませんでしたね」


 死ぬわけないだろ。

 当たり前のことである。

 なれど、桐原はどこか満足したようだ。


「まあ、よしとしましょうか。藤堂君のお茶目なところも見れました。藤堂君も私のお茶目なところを目撃して頬が綻んだことでありましょう」

「お茶目といえるのか?」


 桐原などは可愛らしい歯を剥き出しにしながら、本気で鳩に対し殺意を剥き出しにしているように見えたのだが。

 というか、瞳などは明らかに本気であった。

 鳩に自分の尊厳を奪われまいと抵抗していた、京言葉でいえば「ほんまもん」のヤバイ奴である。


「藤堂君、手を貸してください」

「……構わんが」


 俺は黙って従う。

 指でピストルを作った、右手を差し出す。


「まあ、今回はこれで許してあげます」


 桐原は、俺の右手に小さなキスをした。

 その唇の柔らかさと弾力は、マシュマロの感触に似ている。

 俺は何を言い返すこともなく黙って右手を取り返して、読書を再開した。

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