第6話 鳩と桐原2
桐原は感情が豊かである。
ギリシア神話のピグマリオンに出てくるガラテアのような容姿に逆らうようにして、表情は容易く可変し、けたけたと楽しそうに顔を綻ばせるのだ。
それ自体は可愛いと思う。
問題は読んでいる本が『蟹工船』であり、女子高生がニコニコしながら読むものではないことだ。
「藤堂君、ソフトクリームを買ってください」
「自分で買え」
「50円の古本買ってる女の子が、ソフトクリーム代300円を出せると思いますか?」
財布すら330円で買ったものですよと桐原は呟いた。
……財布とは330円で売っているものだったろうか?
仕方なく、携行用の小さな財布から野口英世さんを一枚出す。
「1000円上げるから、好きなソフトクリームを買ってこい。俺のコーヒーも」
「何飲みます?」
「キャラメルマキアート」
御釣りはお前にやる。
そう言い捨てて文庫本に視線を戻すと、桐原は「わあい」と子供のように呟いて売店に走っていった。
なんかお腹空いてきたので、俺の分もソフトクリームを頼めばよかったか?
まあいい、頭の糖分はコーヒーで補充しよう。
一度文庫本を閉じて、眼精疲労に効く目頭と鼻の間のくぼみのツボを押さえる。
「ヒャア、どきなさい鳩ども」
桐原は売店の近くにいる鳩どもを威嚇して羽ばたかせた。
本当に子供だなアイツ。
無事に自分のソフトクリームを受け取り、紙カップ自販機から俺のコーヒーも拾ってこちらに歩いてくる。
美少女だ。
こうしてみると、本当に美少女ではあるのだ。
容姿だけだが。
「鳩がいますね」
ここは公園なのだから、別に鳩ぐらいいるだろ。
桐原は定位置だとばかりに俺の隣に座って、ソフトクリームを舐めながらに鳩を眺める。
どうということもない普通の土鳩(ドバト)である。
「なんか二匹ほどさっき濃厚なキスをしてたので、思わず邪魔してやったのですが」
なんでお前はそういうことをするんだよ。
むしろ邪魔をしないように避けて通るというのが、人間として正しい行いではなかろうか。
こいつには愛がない。
「鳩ってキスしましたっけ?」
「求愛給餌だな」
雄が雌に餌を与えるのだ。
つがいを維持するためであり、栄養補給であり、優れた狩りの能力を誇示するためでもある。
生物学的な評価ではそうだが、単純な愛と呼んでも別に問題はなかった。
なにせ、雄がいくらプレゼントとして餌を持ってきても、雌側が拒否するケースも珍しくない。
その場合、雄はそのプレゼントをずっと口にくわえたまま何時間も放置プレイされるのだ。
悲しい姿である。
「なるほど、あの鳩はつがいですか」
「そうだろうな」
それにしても情熱的なキスである。
お互いのクチバシを掴んで離さないようにしている。
糞害などの被害問題はあるが、まあ俺などには無関係なので単純に微笑ましかった。
二人して、まあ簡易的なバードウォッチングなどを楽しむ。
息抜きにはちょうど良かった。
「藤堂君、鳩が雌の背中に伸し掛かったんですが」
「……」
そりゃ求愛行動をして、雌がそれを受け入れた後なのだ。
交尾ぐらいするだろうに。
そう言えば終わりだが、それを陶器のような美少女である桐原の前では口にしがたいのだ。
他の女どもには平然と言えても、それを言わせない不思議な美しさが彼女にはあるのだ。
「鳩も交尾するのに、私と藤堂君は交尾してないんですよね。不思議です」
私の懊悩は全て余計なお世話であったが。
何わけのわからん事をほざいてんだコイツ。
「『蟹工船』で無骨な漁民が14歳の雑夫(少年)に夜這いをして、バット(煙草)と交換で手に入れたキャラメルをくれてやる代わりに自分のバット(棒)で強姦する。弱者が更なる弱者を搾取するという悲惨なシーンがあるんですが――」
そんなんあったな。
俺は手元のキャラメルマキアートを眺めた。
ひょっとしてだが桐原はその少年への強姦を揶揄する文章を読んで、先程はけたけたと嘲笑していたのだろうか。
本当にクズだなコイツ。
「私にくれません、そのキャラメルマキアート」
「やらねえよ」
どういう意味で、俺のキャラメルを寄越せと言っているんだ。
俺は仕方なく、安物のコーヒーを一気に飲み干した。
本を読みながら、ちびちびと飲む予定であったのに。
いや、それどころか、このままでは読書の継続すらも怪しい。
確かにそれを予感している。
「藤堂くーん、藤堂くーん」
つんつんと、人差し指で俺の脇腹を刺す。
こういう時は、無視の一手である。
「まあ私にキャラメルをプレゼントとして寄越して、交尾しようぜなんてまではいいませんよ。私も節度ある女の子でありますし」
つつ、と指を延ばして、俺の大胸筋をなぞる桐原。
俺は無視して文庫本を開き、動揺などせず『ドリアン・グレイの肖像』を読むこととした。
とにかく、もうこの邪な――目をとろんとさせて、指で俺の肌をなぞろうとする状況に入った桐原をマトモに相手はできないのだ。
ハートマークが浮かんでいそうな蠱惑的な瞳、小さな犬歯に挟まれて見える小さな舌が蛇のように、ちろと見えた。
首は触れてしまえば折れてしまいそうなほどに細い。
髪などは乱雑に扱っているようであるが、蕩けるような香りまで漂っている。
俺の部屋に焚き染めている沈丁花と金木犀を若干と感じさせるが、それ以上に乳白色の少女の香りが勝っていた。
「キスしましょうか。藤堂君。もちろん、鳩のように情熱的なキスですよ」
俺は桐原の申し出を無視した。
それしかできないからだ。
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