第11話 束の間の休息

聖華暦833年 7月1日


嫌な夢を観て、目が覚めた。

時計の針は午前3時になったばかり。


全身からじっとりと汗が滲んでいて気持ち悪い。

喉が渇いている。

テーブルの上の水差しから水をコップへと注ぎ、喉へと流し込んだ。


少し温くなった水はそれほど美味しくはなかったが、それでも喉が潤った事で、僅かばかり気持ちが和らいだ。


それから夜風を浴びようと窓を開けた。

湿気を含んだ風はヒンヤリと心地良く、僕はようやく落ち着いた。


改めて、さっきまで見ていた夢を考えた。

以前にも観た光景だった。


まん丸で、真っ白い月。

見上げた夜空の真ん中に、ぽっかりと浮かんでいる。

淡く蒼白い月の光は森の木々の合間を縫って、思いの外明るく周囲を照らす。


僕はぼぉっと満月を見上げ、ふと足元に視線を落とす。

足元まで広がっている紅い血溜まり……。

その傍に、事切れて物言わぬ男が一人、地面に突っ伏している。


忘れたことは無かったけれど、夢に観たのは初めてだった。


こんな夢を観た原因は明白だ。


先日の、帝国統括騎士會での出来事。

ビクトル・ライネリオの持つ『恐慌の魔眼』の力で観せられた、あの幻影のせいだ。


視えたのは、僕の姿をした、暗い、真っ黒い、血塗れの、獣のような、僕、紛れもなく僕の姿。


どうしようもなく、恐ろしかった。


ルイーズさんは、『恐慌の魔眼』はその人の最も恐ろしいと感じるものを観せるのだと言った。


だから、僕が最も恐れているのは僕自身、という事になる。


いや、違う。

正確に言うなら、僕自身が自覚している、心の中に巣食う闇、獣のような人殺しのその姿を視せられたのが、本当に恐ろしかったのだ。


また気分が滅入ってきた。

時計は3時半になっている。

けれども目が冴えて、もう眠れそうに無かった。



「おはようございます。」


「おはようございます、リコス様。……顔色が優れませんね。どこか具合でも?」


いつも通りに振る舞ったつもりだったが、いともあっさりと見抜かれてしまった。


「いえ、そうではないです。早くに目が覚めてしまって、それから眠れなかったんです。」


「まぁ、それはいけません。少し失礼します。」


そう言って、エミリさんは僕の額に右手を添えて自分の額を押し当てた。

彼女から清潔な石鹸の香りがして、僕の鼻腔をくすぐる。

頬が熱を帯びたように熱くなるのを感じた。


「熱は無いみたいですね。」


彼女の顔がとても近い。

それだけで、心臓の鼓動が速くなる。


「リコス、今日のトレーニングは中止だ。」


突然、オルテア様が言いました。


「師匠、僕は大丈夫です。」


「今日のお前は明らかにコンディションが悪い。そんな時に無理をしてもかえって逆効果だ。……エミリ、今日はリコスと一緒に遊びに行きなさい。」


「まぁ、ご主人様、よろしいんですか?」


オルテア様からの思いがけない提案に、エミリさんが喜色を含んだ声を上げた。


「えっ、でも……」


「リコス、いいな。」


「……はい。」


結局、師匠の言いつけには逆らえず、エミリさんと遊びに行く事になった。


「朝食を食べたら部屋に戻って少し寝なさい。」


「判りました。」


僕は席に着くと、上機嫌なエミリさんの並べる朝食を食べ始めた。



午前10:25


朝食を食べてお腹が膨らむと急激に眠気に襲われ、そのまま部屋に戻ってベッドへ倒れ込んで寝てしまった。


10:00前に目が覚めて、そこから支度をしてこれから出掛けるところだ。


「リコス様、それでは参りましょう。」


エミリさんの声が弾んでいる。出掛けるのがよほど嬉しいらしい。


「それで、何処へ行きます? 僕はあまり詳しくないのですが…」


「任せてください、ご主人様からお小遣いも頂いています。今日は私がエスコート致しますよ。」


ニッコリ笑ってそう言うと、僕の手を引いて歩き出した。

白くて柔らかい手。

エミリさんと手を繋いでいると、掌から彼女の温もりが伝わってくる。


「……と言っても、私も最下層くらいしかよく知らないのです。なので、今日はそちらに参ります。」


ここ、帝都ニブルヘイムは街が三層構造となっており、第一層は皇帝陛下が座する皇宮と貴族街、第二層は軍事施設となっている。

そして、これから行く最下層は一般市民の生活する市民街だ。


僕がニブルヘイムに来てからは、第一層で生活していて、それ以外にはまだ行った事が無かった。

だから、最下層に行く事は少し楽しみでもある。


貴族街と最下層は直結した回廊があり、そこを通って行く。

第二層は軍事施設である関係上、出入り出来る場所は限られている。

まぁそれは、今日のところは関係ないか。


検問を抜け、最下層へとやって来た。

静かな貴族街とは違い、人、人、人の海。

あまりにも人が多く、それゆえに活気に満ち満ちている。


「さあ、参りましょう。はぐれないように手を離さないでくださいね。」


「はい。」


手を繋いだままなのが、なんだか気恥ずかしく、落ち着かない。

でも、エミリさんは僕の事などお構いなしに歩を進めている。


やがて、ある屋台の前で立ち止まり、店の主人 に声をかけた。


「おじさん、その串を二つくださいな。」


「ヘイ、毎度。熱いから気をつけなよ。」


はい、と手渡されたのは、厚切りの豚肉を塩焼きにした焼き串だった。


僕がキョトンとしていると、エミリさんは自分の串に齧り付いた。


「んん〜、美味しい。」


すごく、良い笑顔だ。

僕も串に齧り付く。口の中に甘い肉汁が溢れ出し、塗された塩が程よいアクセントになっている。

気が付けば無心で食べ進めて、あっという間に無くなってしまっていた。


「どうですか?」


「美味しかったです。」


「ふふっ、良かった。さあどんどん行きますよ。」


その後は、僕達は食べ歩き、店を覗き、買い物をして、最後に陸上船舶の湾口へとやって来ていた。

ここで、初めてエミリさんと会ったんだな……


帝都と外界を隔てる防壁の上、そこから外の荒野が一望出来た。

荒野に降りれば、そこは弱肉強食の死の世界。

危険な魔獣が闊歩して、それなりの武装が無ければ生きていくのも困難な危険な場所だ。


けれど、夕陽に照らされた荒野は意外にも美しく、そんな事を感じさせない。

そうは思ったけど、僕の胸に燻るモヤモヤは晴れてはくれなかった。


「リコス様、今日は如何でしたか? 楽しんで頂けましたか?」


エミリさんが僕の顔を覗き込む。その表情は、少し心配そうだった。


「ええ、とても楽しかったです。今日はありがとうございました。」


楽しかったのは嘘では無い。無いのだけれど、やはり引っかかったものはなかなか取れてはくれないようだ。


「それは良かったです。………リコス様、なにか心配事がありますね?」


少し、ドキリとした。


「……判りますか?」


「ええ、どこか心ここに在らず、という感じがしましたから。」


僕は周りから、何を考えているかわからない、とよく言われて来た。

でも、エミリさんは僕の事をなんでも判るんだな。


「私も貴女の力になりたいんです。……話して、もらえませんか?」


「………」


僕は、何も言え無かった。

彼女には話を聞いて欲しい。その感情は確かにある。

だけど同時に、怖い。


話をして、彼女に、エミリさんに嫌われる事、軽蔑される事………

僕が人殺しだと知られてしまう事が、なによりも……怖い。


「やっぱり…私では、お役に立てませんか?」


彼女の少し悲しそうな表情に、僕の中で言いようのない罪悪感が芽生え、胸をチクチクと刺した。


「少しだけ……時間をください。」


「わかりました。話したくなったら、何時でも言ってくださいね。」


彼女の寂しそうな笑顔に、胸が締めつけられる感じがした。

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