第20話 8月2日 【4】
「私ばっか悪いしほかに行きたいとこある?」
それから服屋を出て一応俺が選んだ服だけを購入した高梨が言ってくれたので今度は俺が『じゃあ』と言って近くのスポーツ用品を取り扱っている店に行くことになった。
けれど入店してからテニス関係の物を見たら高梨にまた最後の大会での苦い記憶を思い出させてしまうかなと入店してから気が付いてテニス関係の物が置いてある場所をうまく避けながら店内を見て回っていたが。
「き、黄介! 私ちょっとトイレ! 入口にあったよね?」
俺の返事を聞く間もなくトイレがあった店の入り口の方に藍子が走って行って『まぁさっきファミレスでドリンクバーがぶ飲みしてたらな』なんて呑気に見送っているといつの間にか高梨の姿はなく、もしかしてと思いちょうど隣にあったテニス関係の物が置かれているコーナーに行くとその背中はあった。
そして壁に絵画を飾るかのよう丁寧に掛かっている色々な種類のテニスラケットの内の一つを手に取りグリップ部分を感触を確かめるように何度も握っては離してを繰り返しながら背中のまま言った。
「別に平気だから。気、使わなくても」
余計なことをしたなと思いながらも高梨の背中は二人きりで帰った時のあの、なにかを忘れてきたかのようにグラウンドを見つめていた姿と重なったからまた『なにか』と、声をかけた。かけずにはいられなかった。その背中の向こうの顔はきっとまた曇り空だろうから。
「高梨はさ……高校に上がってからもテニス続けんの?」
「……んーどうだろ。新しい先輩がうるさくなかったら続けようかな。別にテニスはそこまで好きってわけじゃないしね、私」
背中のままの返答は心配とは裏腹に軽いものだった。
「続けた方がいいよ絶対」
でもそれが本心ではない事は分かったから言った。
すると高梨はなにも言わずに強く理由を求めるような顔して振り返るから。
「だって泣くほど悔しかったんだろ」
間髪入れずに続けて言った。だって好きじゃなかったら人前で泣いたりなんかしないし部長なんてきっとやっていなかっただろう。それに。
「それにさ……手……」
先ほど繋いだ高梨の手は固かった。手をほとんど使わないサッカー部だけれど男の俺よりもずっと。それは何千何万回ラケットを振ってきた証に違いないだろう。
俺がそう言うと高梨の視線は、ゆっくりと持ち上げて眼前で開いた自身の掌に移った。そして掌を見つめたままじっと動かなくなった。きっと今までの事を思い返しているのだろう。楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、これまでテニスと向き合ってきたことの全てを振り返って答えを出そうとしている。そんな風に見えた。
それから五分以上は経っただろうか。店内に流れていた流行りの曲がちょうど終わったタイミングで高梨は持ち上げていた手を下ろし再び俺へ視線を向けた。
いよいよだと思った。高梨の瞳はなにかを決断したように真剣に見えたからテニスを続けるか続けないかその答えを聞けるんだと。
「瑠璃……名前……」
「……へ?」
だから飛んできたあまりにも脈絡のない言葉に間の抜けた返答をしてしまった。
「……だから! 私だけ名前で呼ぶのって不公平でしょってこと! だから名前でって!」
すると珍しいぐらいに見たことないぐらいにやけくそに声を荒げて高梨は言った。でもその赤い顔は怒ってるようにも俺を陥れようとしているようにも見えなかったので意図が分からず困惑しながらも言われるがまま名前を呼んだ。好きな人の名前を生まれて初めて。
「えっと……る、瑠璃?」
名前を呼ぶと高梨は笑った。でもそれはいつもの笑顔じゃなかった。おもしろいことが起きたときとも、人をからかうときのイタズラな笑顔とも違う花火みたいにぱあっと笑ったその顔に文字通り夜空に上がった花火を見るかのように目を奪われた。
「なになにー? なに話してたの瑠璃ちゃん?」
そこにちょうど俺の後ろから藍子が間に割って入るように帰って来て瑠璃に詰め寄り訳を聞こうとしている。
たぶんさっきの笑顔を藍子も見たのだろう。藍子でなくとも瑠璃のことを知っていれば思わずわけを聞きたくなるほどの笑顔だったから。
「んー、内緒……かな?」
その瑠璃は藍子に若干押されながらもいつものクールな表情で返事をしていたが俺にはわかった。内心焦っているのが。
「えー? 瑠璃ちゃんなんで?」
でもそんな瑠璃の反応に藍子は気づかないまま一度は落胆したような声を上げるとケロッとした声で『じゃあ黄介』と今度は俺に詰め寄って来る。
「あー、内緒……かな?」
けれど俺の方を向いたことによって藍子の死角になった瑠璃から目配せが飛んでくるのでよく分からないまま口裏を合わせると。
「なんでっ? 二人ともいじわるっ!」
藍子はそう言って分かりやすく破裂寸前の風船みたいに頬を膨らませた。
その後、瑠璃と二人で藍子をなだめながらスポーツ用品店を出てまだ日は暮れていなかったが電車が混む前に帰ることになり自宅の最寄り駅まで帰って来た。
「藍子、悪かったってそろそろ機嫌直してくれよ。これでジュース買っていいから」
しかしその間藍子は俺にも瑠璃にも口をきかないままだったので最終手段として小銭をいくらか差し出して言うと少しためらった藍子だったが結局受け取ると駅を出て道路を挟んだ先にある自動販売機がずらっと並んだ場所へと嬉しそうに駆けて行った。
『なんとかなりそうでよかった。ていうか藍子ってそんなにジュース好きなんだな。ドリンクバーがぶ飲みしてたからもしかしたらって思ったけど。それに……なにか困ったとき使えるかも』
「ねぇ黄介」
そんな事を考えていると不意に隣から名前を呼ばれて生徒指導の先生に呼び止められるように無意識に背筋が伸びた。その心境は真逆だけれど。
『名前で呼び合うことになったんだっけ』
そして俺の名前を呼んだ後に続くであろう瑠璃の言葉を待ちながらそのことについて考えていた。脳内ではもう名前で呼んでいるけれど実際口にして名前を呼んだらと。
それは疑り深い卑屈な性格の自分のせいでもあるけれど__
『__瑠璃のせいでもあるんだからな。ほら、アレとか……アレとか……』
そうこれまでされてきた過去の悪行を思い出しながら心のなかで文句をつけていたが次の瑠璃の言葉で綺麗さっぱり流れていった。
「今日さ……黄介と一緒に出掛けられて楽しかったよ。それで思ったんだ。もっと仲良くなれたらいいなって、なんだろ……補色関係みたいな」
そしてあの言葉を思い出した。
『黄介と__ちゃんは補色関係なんだね』
誰が言ったのか自分と誰の事を言ったのか未だに思い出せないけれどなんとなく相手は藍子だと思っていたし藍子以外に心当たりはいないから瑠璃ではない。瑠璃はたまたまその言葉を言っただけだと思う。
けれど
「って、なに言ってんだろ。じゃあ私、寄るとこあるからこれで。今度は連絡無視しないでよね。じゃあね……黄介」
そう言って瑠璃は人混みに紛れて見えなくなったのにしばらく俺の瞳には残像のように瑠璃色が映り続けていた。
そしてどこかで俺の名前を呼ぶ声がしきりに聞こえた気がした。
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