第15話 8月1日 【5】

「誰だ! こんな時間に!」


 続けて男性の怒号が静寂に包まれた教室に響き渡る。その声の主はよりによってこの学校で一番厳しいと言われている生徒指導の先生だった。


 窓際の席に座っていた俺は咄嗟に近くにある束ねてあったカーテンの後ろに隠れたので気づかれてはいないようだったが運悪く前扉の近くにいたあいこは見つかってしまった。


 最悪だった。俺だけ見つかるなら、二人で見つかるならまだよかった。俺が囮になってあいこに逃げてもらえるから。


「お前、学年と名前は?」


 藍子は逃げることも出来ないような距離まで詰め寄られて年配のその先生に威厳のある声で身元を問いただされている。

 どうすればいい。出て行って正直に謝るべきか。


 __いや、この学校に通っている俺だけならまだしも他校の藍子はどうなる。俺もだけど親に連絡されるまではまだいいとして他校の藍子は下手したら警察にまで連絡されて遠く離れた自宅に連れ戻されてしまうだろう。


 それはダメだ。俺もだけど俺のことはどうでもいいけど受験を控えている藍子はどうなる。あっちの学校にも連絡されて内申点下がってその後の人生に傷がついてしまう。


 それにイヤだ。もう離れ離れになるのは。全部俺のせいで全部俺の撒いた種で結局この夏が終わったら別れることになるけれどこんな終わり方は絶対にイヤだった。


「……おい、聞いているのか」


 しかし先生は目の前にいる藍子の詳細になかなかたどり着かない。電気も付いていない薄暗い状態の教室が幸いしたのか一クラス三十人前後で四クラス百二十人もいるけれど一年生の頃から俺の学年を担当してきたこの先生なら学年で色が分かれている三年生のジャージを着た藍子がこの学校の生徒じゃないことぐらいわかりそうなものなのに。


 それに藍子が着ているジャージの胸元に刺繍された俺の名前にも気が付いていないようだ。

 でもそれは時間の問題で藍子がそのまま黙っていてもいずれ前扉近くにある教室の電気を付けるだろう。


「チッ……」


 皮肉にもそう考えていると黙ったままの藍子に痺れを切らしたのか先生は舌を鳴らすと恐らく電気を付けるために藍子の元を一度離れて電気のスイッチがある教室の前扉の角に向かって行った。




「……藍子っ!」




 それを見て俺は思いきり叫んで藍子の元へと走り出す。


「……なっ!」


 不意を突くことに成功し先生の動きが一瞬止まる。その隙に俺は教壇の近くまで歩を進めた。


「……まだいたのか!」


 そう言って動き出した先生に気を取られて教壇の前の席に当たってしまった。右の太ももに痛みが走り『ドオン』と机が倒れる鈍い音が響く。けれどスピードは緩めない、緩めてはいけない。


 続いて『カチッ』とスイッチを押す小さい音が鳴ったと同時に藍子の手を握り次に『ブォン』とこもった音を立てて蛍光灯がゆっくりと明るさを増すが完全に明るくなる前に藍子の手を引き開いたままの教室の前扉をくぐって廊下へと出ることに成功した。


「おい待て! 逃げるな!」


 背中で怒号を受けながら廊下を駆け抜けて足音一つ立てずに静かに上った階段を今度はドラムでも叩いているぐらい勢いよく下りながら頭を回す。


 今この状態で理科室の通るのがやっとだった小窓を通るのは不可能だ。かといって胸の高さより上にある廊下の窓の鍵を開けて逃げるのも、昇降口の鍵をそしてその重たい扉を開けて逃げるのも無理だし第一外に出られたとしても靴がない状態で藍子に外を走らせるのは危ないからダメだ。


 そう考えた俺は階段を下りた先にある女子トイレに静かに入った。


 理由は三つある。一つは教室で叫んだ時に俺が男だと知られたこと、男の先生だったから女子トイレに入ることに少しぐらいは抵抗があると思ったこと、そして一旦見つからなければ隙を見てトイレから出て理科室から逃げれると思ったからだ。


 躊躇することなく女子トイレに入ったので藍子にどう思われたかわからないが今はそんなことを考えている余裕はない。


 女子トイレの一番奥の個室に不自然に思われないように余計な音を立てないように扉を開けた状態で入った俺達は呼吸を整えながら息をひそめていると同じく階段を鳴らすように音を立てながら降りて来た足元はトイレの前辺りで収まった。階段を下りて続いている長く伸びる廊下に人影がないからどこかに隠れたと怪しんで恐らくその場に止まったのだろう。


 『どっか行ってくれ!』と、口に出しているんじゃないかと思うほど強く頭のなかで叫ぶ。




「……おい、出てこい。いるのは分かっているぞ」




 その力強い声はうっすらと聞こえた。壁一枚を隔てて隣にある男子トイレから。


 『ふぅ』とため息さえ頭のなかでつきながらここでようやく余裕ができて藍子の様子を確認した。繋いだ藍子の手はずっと震えていたから怖かっただろうなってごめんなってきっと大丈夫だって言おうと思った。


「黄介、大丈夫だよ。大丈夫だから。ごめんね私のせいで」


 けれど藍子は逆に小さい子をあやすように俺に言う。『なんでそんなこと言うんだよ。一番怖かったのは藍子だろ』と思ったけれど震えているのは藍子の手じゃなく自分の手のほうだったことに気が付いた。


 震える自分の手を見て『あぁ藍子はまた自分のことより他人のことを優先するんだな』って思った。昨日の夜の事も今日の事も。


 また痛感する。俺はどうしようもなく弱い人間だと。部活の最後の公式大会での事も高梨に対しての事も藍子の事も。


 でもそんな俺の足りないところを藍子は補ってくれる。情けないとも思う。けれどそれ以上に補ってもらった自分で藍子に返したいと補いたいと守りたいと強く思って言った。


「ありがとう藍子。もう大丈夫。藍子は俺が絶対に守るから」


 いつの間にか手の震えは止まっていた。




 けれど無慈悲にも今度ははっきりと先ほどと同じセリフが聞こえ電気が付けられた。


「……おい、出てこい。いるのは分かっているぞ」


 その言葉を聞いてもう一度覚悟を決めた。今個室から出て行って職員室にでもどこにでも俺が連れて行かれて藍子が逃げる時間を稼ぐことを。


 そう思って繋いだ手を離して個室を出ようとしたのに藍子が再び俺の手を掴む。『ダメ。私が』藍子の口はそう動いたように見えた。この場合は裏目だった。他人を優先する藍子、その藍子を守りたいと思う俺。足音はもうすぐそこまで__。






「チッ……逃げられたか……」


 しかし俺達が入っている個室の目の前で声の主はトイレの奥を見て悔しそうにそう呟くと目の前で引き返していった。


 不思議に思いながらも少し時間を置いた後にトイレの奥を確認するとトイレから外に繋がる窓が少し開いておりどうやらそこから逃げたとでも思ったのだろうか。




 それから慎重に女子トイレを出て理科室に戻り内側から鍵を閉めてまた小窓から校舎を後にした俺達は理科室に来たルートの逆を通ってあの壊れたフェンスから学校を出て足早に自宅へと帰った。

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