第2話 7月30日 【2】

 毎年駆け足で去っていく夏のなかで休憩するかのように足を止めた今ならなにか思い出せそうな気がした。


 正直心当たりはあまりなかったがそれの逆を突くなら手掛かりはある。俺は小学校二年生のときに現在住んでいるこの街に親の仕事の都合で転校してきたのだが転校してきてからのハッキリとした記憶に心当たりはなかったので転校する以前の記憶に選択肢を絞った。


 たしか以前住んでいた町はコンビニもファストフード店もなく背の高い山々に囲まれた結構な田舎で住んでいた家の周辺には民家がポツポツと数えられるほどしかなく通っていた学校も中学生ぐらいの人たちまでが一つのクラスで授業を受けるような所だった。


 そしてそのなかには俺と同い年の子が一人いたはずだ。周りになにもなかった俺達は自然と遊ぶようになってなにをするのにも一緒でもはや家族のような存在だった、と思う。


 なのになんで今まで忘れていたのだろうか。確か名前は。


 しかしその記憶を塗りつぶすかのように午後六時の鐘が高々と鳴りその音で記憶のキャンパスはあっさりと白紙に戻ってしまいこれ以上なにも思い出せそうにないなと諦めた俺は仕方なく帰ることにしてまたどうしようもなく襲ってくる罪悪感に胸を絞めつけられながらベットから降りた。


 そして双葉が出て行った一階の保健室から外に繋がっている大きな窓に向かいやっぱりあったここから俺が運ばれてきた証明である綺麗にそろえられた自分のサッカーシューズをクレーンゲームみたいに右手の人差し指と中指ですくい上げて窓をしめなおし鍵をかけ廊下側から校舎を出るために昇降口へと向かった。


 それから昇降口を出るとあと六時間で一日が終わるとは思えないほどの熱気が手厚く出迎えてきて思わず顔をしかめながら二分もかからない駐輪場への道のりにすでにうっすらと額に汗が出てきたことを感じながらもなんとかたどり着き、駐輪場の一番奥に止められた自分の自転車の足元に置いておいたスニーカーに履き替えながらふと思いついた。最初から母さんに昔のことを聞けばなにかわかるんじゃないかと。


 そうと決まれば善は急げと言わんばかりにシューズを入れてきた布袋に脱いだシューズを詰め放題のようにぎゅっと詰めて自転車の前カゴに放り込み少し強くスタンドを蹴り上げたが警告音のような高い笑い声が後ろから聞こえてきたので動きを止め振り返ると一人の女子の姿があった。


「ねぇ今日顔面にボール当たって倒れたでしょ」


 後ろから声をかけてきたのはクラスメイトの高梨たかなし瑠璃るりという女子であった。


 高梨はそう言うと特に倒れたことに対して心配するそぶりもなくさっきよりシャープを一つ追加したような高い声で再び俺を笑うから恥ずかしくなった俺は今更気が付いた鼻に貼ってあった絆創膏を隠すように眉間を搔きながら負け犬のように小さく呟いた。


「うるさいな」


 恥ずかしくなったのには三つの理由がある。一つ目はサッカー部以外の生徒に見られていたこと、二つ目はそれが女子だったこと、そして三つ目は……俺が高梨のことを好きだったからだ。


 小学校二年生の夏、転校してきて間もなく近くの通学路を歩く高梨に俺は出会いいわゆる一目惚れをした。セミロングの少し茶色がかった綺麗な髪を何度も肩に当てながら揺らして歩く彼女を見て。


 本当に衝撃的だったのを今でも覚えている。それまで同年代の女子をかわいいと思ったりテレビに映る名前もわからない女優の人を綺麗だなと思うことはあったのに高梨はわけが違った。

 斜め三十度ぐらいの後ろから見ていたから本人は気づいていないと思うけど周りを歩く人からは絶対にわかるぐらいに目を奪われるってこういうことだって写真付きで辞書に載せられるぐらいに俺は高梨に釘付けになってしまったから。


 それから家が近いことが分かり二人きりではないが一緒に登下校する班になり自然と会話をする機会は多く周りの男子よりは仲がいい……と勝手に思っている。


 高梨は笑い終えるといつもの鋭いツリ目に戻り俺の自転車の前カゴに肩にかけていた黒いカバーに入ったテニスラケットを乗せてきたので何事かと思ったが高梨が学校にいるのならば名前の順で隣に停めてあるはずの彼女自身の自転車がないことに今更気が付いた。


 そして今度は俺の自転車の荷台を指差すと出会った当時から大きく変わることのないそのセミロングの綺麗な髪を風に揺らされて肩に当てながらこちらの気持ちを見透かしたかのように三度笑って言う。


「後ろ乗せてよ」


 自転車がない理由については学生ならではの大方パンクしたとかだろうと特に追及することはしなかった。ただ平静にイエスと返事をするので精一杯だったかもしれないが。

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