第10話 7月31日 【5】

 後悔しよう。


 あいこが見つからなければそれで後悔してあいこが見つかったら頭のなかぐちゃぐちゃのまま言いたいこと言って気持ち悪がられてそれで終わりにしよう。そう思った。


 あいこの家を飛び出してから気が付けば俺は森のなかを走っていた。心臓は試合で走ってる時よりもうるさい。固く握ったまま開かなくなった拳からは雑巾をしぼるように手汗が溢れてくる。


 でも足が止まらない。止まってくれない。どちらにしろ後悔するって知ってるのに。


 そして絶え間なく繰り返される吸っては吐くその隙間で彼女の名前を呼ぶ。


「あいこっ……」


 彼女の名前を呼ぶ。記憶のなかでずっとそうしてくれていたように。


「あいこっ……」


 彼女の名前を呼ぶ。返事をするように。


「あいこっ……」


 彼女の名前を呼ぶ。もう二度と忘れてしまわないように。


「あいこっ……」






 そうして森を出た先の川のなかにあいこはいた。昨日の、思い出の、あの川の中心で背中を向けてなにをするでもなく膝から下を水のなかに入れて光合成をする植物のようにじっと立っていた。


「……あいこっ!」


 その姿を見つけて近づくより先に無意識に大声で名前を呼んだ。そしてこれから帰ることなんて頭から飛んでいた俺は川辺に置かれた靴をまたいで靴のまま川のなかにいるあいこに目の前まで近づくと驚いたような表情であいこは言う。


「き、黄介? ど、どうしたのそんなに慌てて。大丈夫? 汗すごいよ」

「そっちこそどうしたんだよ朝からいないなんて」


 すかさず返した問い詰めるような俺の返答に今度は慌てたようにあいこは答える。


「えっと……散歩! 散歩してたの! この時間はいつも来てて__」

「あいこ、俺さ」


 あいこの言葉を遮って枯れかけみたいにだらんと力無く下に伸びる左手を右手で握った。


 見ていられなかった。心配させないように嘘をついてぼやけたように笑って顔を伏せる夏の終わりのヒマワリみたいなその姿を。


 そして言わなければいけないことが、言いたいことがあった。


「俺さ、俺っ……」


 けれどそこで完全に浸水した靴と同時に興奮ドーピングは切れて言葉につまってしまうと応援するように聞こえていた蝉の声もなぜかちょうどピタリと止んだ。


 それはまるで教室の真ん中でおかしなことを言ってクラス中から冷たい視線を集めているような証拠が出揃っているのに法廷の証言台で自分一人だけ無実を主張しているような場違いなことをしているように思え逃げるように下を向いたけれどいつかのように、いつかより情けない顔を鏡のようにうっすらと映しながら流れる川にそれが証拠だとただ無駄に時間が流れていると主張されたような気がした。


 ……やっぱり怖かった。だって言いたいこと言って拒絶されたら背中を向けたあの時以上のものが襲ってくるから。


 それにきっと気持ち悪いって思われてるだろう。急に大声で名前を呼ばれて汗まみれで手なんか握られて。


『もういい』


 そんな言葉が聞こえた気がする。もしかして自分で言っていたのだろうか。わからない。


『このまま手を離して背中を向ければ元に戻れる』


 そして次にそう思って握った手を離そうとしたけれどその手は繋がったように離れなかった。


 『なんで』その言葉の次に『どうして』と、英語にしたらきっと両方『why』と翻訳されるその二言を頭のなかで呟いた後、繋がった手をなぞって顔色をうかがうようにゆっくりと視線を上げるとあいこの目は真っ直ぐ俺に向けられていた。そしてそれは俺が喋りだすまで何分、何時間、何日でも待っていると言わんばかりの真剣な表情だった。


 ……一番怖かったのはあいこだったはず。一番辛かったのはあいこのはず。突きつけられて急にいなくなってずっと会いにこないで忘れられていて。


 わからなかった。どうしてそんなにあいこが俺に対して誠実でいられるのか。


 でもその姿に勇気がもらえた。テレビの向こうで活躍するどんなサッカー選手よりも。だからもう元に戻る気はなくなった。あの時の……背中を向けた自分には。


「あいこ、俺っ!」


 そしてそんな誠実なあいこの姿につっかえていたなにかは外れた。急に自転車に乗れるようになったあの瞬間みたいに。


「あの時なにも言えなくてごめん! 今まで忘れててごめん! 会いに来なくてごめん! それでさ今度は俺の家に来てほしいんだ! 母さんとおばさんにはまだ言ってないけど絶対説得するから! 俺、あいことまだ一緒にいたいから!」


 少し言い過ぎてしまったかな。やっぱり言わなければよかったかな。


 この期に及んでそんなことを考えているといつの間にか視界は黒くなっていた。それでもやっぱり怖かったからどうやら俺は目をつぶっていたらしい。でも。


「黄介っ!」


 次に目を開けると藍に染まっていた。


 まるで自分の名前を呼ぶ声にぶつかったと思うほどの速さだった。声が聞こえてきたと同時にどうやらあいこが俺に抱き着いてきたみたいでバランスが取れずに後ろに倒れていて気が付けば手を繋いだまま二人して川のなかに沈んでいる。


 でも目の前には泣いているような笑っているような冷たいはずなのに暖かくしてくれる。そんな太陽が目の前にはあった。


『あぁこんなに綺麗なは初めてだ』


 それは今まで見たどんな色よりも。きっとあの時見れなかった空よりも。

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