第9話 7月31日 【4】
電気を消してから一体何時間経ったのだろうか。一時間かそれとも十分程度か。時間の感覚が無くなる闇のなかで完全に目が覚めてしまった俺の頭のなかにはあいこと過ごした今日一日のことが流れ続けている。
廊下で倒れながら再会して再会を懐かしむ間もなく森を駆け抜けて日が暮れるまで川で遊んで。そしてそのどのシーンにもあった夏そのもののようなあいこの笑顔が画面いっぱいに。
そのあいこは背中で時折不自然にごそごそと動いている。おそらく寝てしまわないようにと。そんな健気な姿にせめてあいこが寝るまでは起きていようと意味もない決心をした俺は頭のなかで数を数え始めた。
一、十、百と無意味な記録を塗り替え続けているとふと思い出す。俺はあいこに謝ったのかと。
それから千を超えた。一分が六十秒だからもう十分以上は経ってることになる。それだけあれば何回笑いあえただろうか、何回謝れただろうか。
そしてもうじき二千は超える。大きく動くことはなくなかったからたぶんあいこは眠っただろう。だけど俺は眠る気はなかった、許されない気がした。七年という長い年月を埋めるには。きっとこんなものじゃ足りないと思うけれど今度は朝まであいこが目を覚ますまで起きていようと強く誓った。
だけどその記録は二千に届くことなく終わってしまう。静かにこちらの布団に入ってきたあいこが背中から俺を抱きしめて耳元でこう言うから。
「……だいすき」
あいこの言葉に驚きつつもそのぬくもりは真夏の夜で暑いはずなのに長く潜っていた水中から上がってきたような解放感とすべての悩みとか今までの後悔とかこれからの障害がすべてなくなっていくような感じたことのない安心感を際限なく与え続けるから後ろから聞こえる呼吸が寝息に変わる前に俺は眠りについてしまった。
やっと思い出した。それは引っ越す日の朝。
その日の空は覚えていない。ただ玄関を出ると地面の茶色はやけに綺麗できっと頭の上には雲一つないんだろうなって思った。
「おはよっ!」
するといつものように、でもこんな日に限って心なしかいつもより元気にあいこに声をかけられた。そしていつものようにあいこは言う。
「今日はなにして遊ぼっか」
引っ越すことは言ってなかった。言えなかった。大人だったらきっと簡単なことなんだろう。手紙、電話、直接会いに行くことさえも。だけど小学二年の俺にはそんなものは一つも思いつかなかった。
あのとき間違いなく俺達は一番の友達だったからそれは本当に地球が二つに割れてしまうぐらいに衝撃的で悲しくてきっとあいこも同じだと思うと自分で伝えるからって母さんに言ったくせにどんどん言いづらくなって明日言おう、明日言おうと先延ばしにしているうちにあっという間に今日が来てしまった。
結局自分からは言うことが出来なくて後から来た母さんが引っ越すことを伝えるとあいこは。
怒ってた。なんで言わなかったのかって。
悲しんでくれた。行かないでって。
だけど俺は何も言えなかった。突きつけるより突きつけられるほうが辛いはずなのに唇が縫い付けられているみたいに開かなくなって顔さえ見れなくなって。
次第にその声はいつの間にか降っていた雨が段々と強さを増して遮られて聞こえなくなって……耐えられなくなって俺は背を向けてその場を去ったんだ。
母さんの運転する車のなかで泣いた。それまでで、いや今まででも一番に。
そして絶対にまたあいこに会いに来るって誓った。なのに忘れてしまったんだ。
……
最低だと思う。でもそんな俺をあいこは好きだと言ってくれた。ずっと待っててくれた。
大切な人に忘れられるってどんな気持ちだろう。あいこが俺に抱いている友達としての『好き』とニュアンスが違うけれどそれこそもし俺が高梨に忘れられてしまったとしたら。
……想像もつかない。想像もつかないぐらい辛いはずだ。
今まで忘れててごめん。ごめん。本当にごめんなさい。
翌朝起床すると背中にも隣に並ぶ布団のなかにもあいこの姿はなく『彼女の存在は最初から全部俺の妄想で__』なんていつか見たドラマの主人公みたいな喪失感に駆られて失礼ながらも広いあいこの家を隅々まで確認した後に家の周りにも出てみたが結局あいこの姿は見つからなかった。
とりあえず一旦落ち着こうとあいこの家に再び上がると朝食ができたとおぼさんに声をかけられて昨夜と同じ居間に足を運ぶがもしかしたらひょっこり戻ってるかもと期待していたのにそこにもやっぱりあいこの姿はなくテーブルに並べられた食器達から立つ湯気は成仏出来ずにこの世を彷徨う霊に見えた。
「おばさんあいこは……」
ただでさえ広いあいこの家が倍以上に広く感じてまるで知らないところに一人置き去りにされたみたいな心細さに耐えられなくなっておばさんにあいこの行方を聞いた。
「……外にいてもねいつもはこの時間にはちゃんと帰ってくるの。寂しいみたい黄介君が帰っちゃうのが」
でもおばさんの返答に俺は特別驚くことはない。だって本当はわかっていた。ただなにか用事で出掛けていることを心のどこかで祈っていてまた逃げようとしていた自分がそこにはいて情けなくておばさんの顔すら見れなくなった。
「ごめんね黄介君せっかく来てくれたのに。……ありがとね。あいこがあんなに楽しそうに笑ってるの久しぶりに見れたから」
「い、いえ! 俺なんかなにもしてないですから」
もういいと思った。本当になにもしてないけどおばさんもそう言ってくれてるしって。だけど。
「ううん来てくれるだけでそばにいてくれるだけでいいの。あいこはね黄介君が帰ってくるのずっと待ってたから……黄介君のこと大好きだから」
だけど続いたおばさんのその言葉を聞いた瞬間、昨日のあいこの言葉がフラッシュバックした。振り絞るように言われた生まれて初めての言葉が。
『……だいすき』
本当は『かえっちゃやだ』ともう一度言いたかったはずだ。それを押し殺しての『だいすき』はどれほどの勇気を使っただろう。
あいこのこと、どこか子供扱いしていた。すぐムキになるしちょっとわがままなところあるなって。
でもそれは一体どっちなんだろう。嫌なことから逃げて無理だと決めつけてやらずに後悔よりやって後悔のほうがいいと思ってるくせに流されるままの俺とどっちが。
途端に恥ずかしくなってあいこの家を飛び出た。そしてもういいやって、後悔しようって思った。
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