第8話 7月31日 【3】

 あっという間にヒグラシの鳴き声が聞こえ始めてきたことに気が付いた俺達は川から上がりくたくたになりながらもあいこの家の前まで帰って来た。


「黄介、次はなにして遊ぼっか」


 でもどうやら疲れているのは俺だけみたいだった。準備運動なのだろうかあいこは川で遊んだ後の半渇きの服を気にすることなく腕や足をその場で上げ下げしながら口にする。


「いや、あいこ……もう結構な時間だしさ」


 日はまだ完全には沈んではいないが現在の時間は体感でも六時半ぐらいだろう。これからまた遊び始めるには遅いと思った。本当はまだまだ俺も遊んでいたかったからハッキリと帰るとは言いづらく少し言葉を濁してしまったがそれはあいこにもちゃんと伝わったみたいで俺の返答になにも言わずに俯く。


 すると辺りは線香花火の火種が落ちたみたいに一気に暗くなって最後に見えたあいこの悲しそうな顔に俺までひどく悲しい気持ちになってなにも言えなくなりその場に立ち尽くすしかなくなってしまった。


 けれどその時ちょうどあいこの家の玄関の明かりが点き扉が開く。


「あ、やっと帰って来たーもうご飯できてるから」


 そしてまた自分の家のような顔してあいこの家から出て来て言う母さんに良くも悪くもムードは壊れた。


「まだあいこの家にいるのかよ酒臭いし。ていうか帰ってきてから一回でも家に上がったのかよ」

「ん? 上がってないけど。いやー毎年ありがとねーあいこちゃん。急に泊りに来ちゃって」


 悪びれもせず話す母さんに呆れそうになるけれど父さんが仕事で年に数回しか家に帰って来ないウチの状況でその間も働きながらほぼ女手一つで俺を育ててくれている母さんを責める気はなくなった。というか。


「じゃあ俺もあいこの家に泊まるってこと?」

「そうそう。あれ言ってなかった?」


 その言葉に思わずさっきまでの雰囲気まではなんだったのかとあいこと顔を見合わせた。そして安心した。まだあいこと一緒にいられるって。




 でもこの時は気が付かなかった。それがただの時間稼ぎでしかないことに。




 そうしてあいこの家に上がると服が濡れていることに気が付いたおばさんにあいこだけ怒られていてそれに対して『黄介も濡れてる』と道連れにされそうになったが『無理矢理遊びに誘ったのはあいこでしょ』と俺がなにか言う前におばさんに遮られながら風呂に案内されたのでそのあとはわからない。


 それから交代で入った風呂から出てきたちょっとしょげたあいこと急にお邪魔したにも関わらずに並べられた豪華な食事をいただき終わった。


「あいこ、もう寝たほうがいいんじゃないか?」


 そして畳張りの広い居間の中心に置かれた長方形のテーブルで右隣に座っているあいこは茶碗を持ち続けながら船を漕ぐように頭を前後に揺らしているから思わず声をかけた。


 俺も疲れていたけれど車で寝ていたぶん少し余裕がありまだ大丈夫だったがおそらく朝から起きっぱなしで昼頃から日没前までの長い時間を全族力で駆け抜けるような勢いで動いて笑っていたあいこは今のその姿から見て限界だろうと。


 ちなみに机の対面に伏している母さんは完全に酔いつぶれたみたいでいびきをかきながら寝ておりその左隣に座るおばさんにたぶん広いあいこの家ならあるだろう客室にでも運ばれていった。


「だい……じょう……ぶ」


 そして十秒ぐらい遅れて返って来た返事にもう起きているのは無理だろうと判断した俺はあいこの左手から茶碗を取り外しそのまま手を掴んでゆっくりとその場に立たせた。


「んーだいじょぶなのに。じゃあきすけといっしょにねる」


 すると喋った言葉が全部ひらがなみたいな眠そうな声で両手で何度も目をこすりながらあいこは言った。


「なに言ってんだよ自分の部屋があるだろ。連れてってやるから」

「なんで? いっしょにねたことあるでしょ?」

「昔の話だろ。それにもう中三だぞ俺達」


 それに対して俺はいくら幼馴染だからといって昔一緒に寝てたからといって中学三年の男女が一緒に寝るのはダメだと即座に否定する。別にあいこに手を出すつもりもないし自信もないけれどこういうことは彼氏彼女の間柄でするものだとおそらくあいこは理解していないので尚更了承するわけにはいかなかった。恋愛経験のない俺が言うのもおかしいかもしれないが。


「そんなのかんけーない」


 しかし返って来た全面戦争のその言葉から押し問答が続いてしまったがそれからしばらくしてお互い言い争って息が切れ始めた頃、正面の障子の戸が開き母さんを置いて一人おばさんが帰って来て開口一番に言う。


「あいこ、なに言い争っているの。黄介君を困らせちゃだめでしょ? 黄介君今お布団敷いて来たから」


 さすがにおばさんにはなにも言い返せないみたいでいかにも不満そうにあいこは俺を睨んだ。


「おばさんすみません。ありがとうございます」


 それに対して俺は食い気味にお礼を言うと小さく手招きしてから布団を敷いた部屋へと案内するために再び廊下に出たおばさんの後を逃げるように追う。


 しかし案内された部屋を見て俺は言葉を失った。


「お、おばさんこれ……」


 案内された部屋はいかにも空き部屋と言った感じで布団の他になにも置かれていなかったが綺麗だし文句などない。が、一つ指摘するところが指摘しなければならないところがあった。部屋の真ん中にピタリと布団が二つ並べて敷いてあることにだ。


「あら一緒の布団がよかったかしら」


 布団が同じ部屋に二つある理由でも間違えてくっつけて敷いてしまったとかでもなく一緒に寝るのを前提としたおばさんの返答に観念して『これで大丈夫です』と返答するといつの間にか後ろをついてきていたあいこに背中を押されながら部屋に入った。




 それから俺達は布団に入ったが少し目が覚めたあいこにせがまれて引っ越してからのことを話し始めた。学校のこと、部活のこと、友達のこと。


 そして一通り話し終えるとささやくようによくわからない虫の鳴き声がその場を包み始めた。


「……電気消すぞ」


 沈黙に、右隣の布団に女子がいる状況に今更耐えられなくなった俺はその場に立ち上がり真上にぶら下がる少し古い蛍光灯が放つ黄色ともオレンジ色ともとれる光を三回紐を引いて電気を消した。

 それに抵抗すると思ったが意外にもおとなしいあいこに拍子抜けしつつ布団をかぶった。


 ほどなくして居間のほうでなにか動いていたおばさんの足音もしなくなったころ、寝てしまったのか電気を消してから喋ることも特別大きな動きをすることもないあいこにようやく平常心を取り戻した俺は強い眠気を感じ始めて大きなあくびを一つした。

 するとあくびに紛れて弱弱しくあいこがなにか口にした気がする。


 ……いや、聞こえてた。聞こえないフリをした。『かえっちゃやだ』としっかり聞こえたはずなのに。


 だって俺にできることなんてなにもない。まだ一つも宿題に手を付けていないし部活にも出なきゃだしそれにまた仕事で忙しい母さんに後でわざわざ迎えに来てくれなんて言えるはずもない。


 だから俺にできることはなにもないともう一度言い聞かせて天井に向いていた視界をあいこのいない右に倒すと訪れた沈黙はどこかわざとらしくて息苦しくて罪悪感すら覚えた。まるで雨に打たれてる子猫の横を通り過ぎたように。


 時間はかかるけれどこの町に来れない距離じゃないし今の時代電話だってある。なのにもう俺はあいこに一生会えないと強く感じた。

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