第7話 7月31日 【2】

 この町でこの家で同い年ぐらいの子に覚えているかと言われれば選択肢は一つしかない。というかそんなことを考えるまでもなく誰だかわかった。


 太陽の視線をひとりじめできそうなほどの真っ黒な髪、棘のかけらもなさそうで優しそうな少し垂れた目、混じりけのない原色のような笑顔。


 けれど名前が出ない。先ほどから思い出してきた記憶の断片からも昔の頃より髪はだいぶ伸びていて当たり前だけど体も大きくなっていたけれどその笑顔だけは変わっていなかったのに。


 そして俺は返事をすることさえできずにいる。だって、近い、近すぎる。なにかの拍子に唇が触れ合うくらいに。それに頬に何度もあたる彼女の長くて柔らかい髪の感触がますます俺を困らせた。

 そんなのは恋愛経験のない俺には思考停止するのには十分な理由で心臓だけが壊れたみたい覚えているとだけ返事をし続けていた。


「あれ、黄介……忘れてないよね? 私のこと覚えてるよね……?」


 そのまま返事をできずにいると夏の空みたいにサッと彼女の顔は不安そうな表情に変わった。その顔に今にも振り出してきそうな曇り空みたいな顔にあの記憶が蘇る。俺の名前を呼びながら泣くあの子供の姿。


 俺はなんのためにここに来たんだと自分に問う。


 ただ思いつきで会いに来たわけじゃない。昨日まで忘れていた薄情なやつだけれど謝ろうと思った、これ以上泣いてほしくないって思った、小さく心のなかであの子は彼女は大切なものだと何度も感じた、守らなければって一緒にいたいって一緒にいなきゃって思っていた。だから。


「あいこ……さん」


 だから名前を呼ばなくてはと強く思うと忘れていたはずの彼女の名前は呼吸するよりも簡単に口から出た。きっと忘れてしまっていても体が覚えていたのだろう。練習で反復したことが試合で意識しなくとも出るように。


 どうやらそれはちゃんと正解だったみたいで彼女はこれまでで一番の笑顔になった。その姿に一安心していた俺だったがそれも束の間、再び彼女の顔は曇る。


「でもなんで? 昔は『あいこ』って呼んでたのに」


 確かに俺は昔そう呼んでいたのだろう。しかし会うのは小学二年生から現在の中学三年生まで約七年ぶりでお互いに心も体も成長しているわけでいきなり呼び捨てにするのはなんだか気が引けてしまっていた。


「『あいこ』って呼んでくれないと絶対どかないから」


 うだうだと理由を考えていると彼女はいかにも怒っていると言わんばかりに四つん這いをやめドスンと俺の腹に腰を下ろし腕を組んでプイっと頬を膨らませながら顔を横に逸らした。


 もしかしたら女子に跨られているなんて状況、喜ぶべきことなのかもしれない。しかしそんなことを考えている余裕はなく徐々に体重をかけていく彼女に比例して呼吸は段々と荒くなっていった。


 一度触れてしまって触ったらやけどすると知ってしまったものにはもう触ることが難しくなるようにきっとこんな体験を俺はしてきたのだろう。回らなくなり始めた頭は危険信号のように彼女は一度言い出したら聞かない性格だとぼんやりと思い出させるので観念して俺は要望通りに名前を呼んだ。


「わ、わかった、わかったから降りてくれ……あいこ」


 名前を呼ぶと打って変わって満足そうな顔になったあいこはようやく俺の体から離れて立ち上がると倒れたままの俺に手を差し伸べた。


 いつもなら女子の手を握るなんて躊躇しただろう。だけどあんなことが、体に跨られるなんて事態に俺の感覚は麻痺していたようでためらうことなくあいこの手を借りて立ち上がりようやく俺達はまともに対面を果たした。


 しかし会話はない。でも気まずいのは俺だけなのだろうかあいこは小さく右に左にゆらゆら揺れながらニコニコと俺のことを見ている。


 高梨とは正反対のあいこのキャラクターに戸惑いながらもこれ以上見合っていてもしょうがないなと俺は話題を振ってみることにした。


「えっと、久しぶり。その、髪伸びたね」

「うんっ! 黄介が長いほうが好きって言ったから」


 そんなこと言っていたのかと自分で自分が恥ずかしくなった。もしかしたら俺は昔の頃のほうが女子とうまく会話できてたのではないだろうか。もしかしたら高梨に対しても。


 そしてまた会話はなくなってしまう。万策尽きた俺はとりあえず母さんとおばさんのもとに行けば続かない会話のほうはなんとかなるだろうと考えて目の前のあいこを一度通り越した。それにあいこも後をついてくるだろうと思って。


「行こっ!」


 しかしあいこはそう言ってすれ違いざまの俺の手を後ろから掴みぐいぐいと引っ張った。遊園地の入り口で早く中に行こうとせがむ子供みたいに。


「い、行くってどこに?」


 対面して冷静さを取り戻してしまった俺は突然掴まれた女子からの手に少し動揺しながらもあいこに問うと間髪入れずに返事が返ってくる。


「決まってるじゃん! 遊びにだよっ!」


 その瞬間緑のランプが点いたレーシングカーのような勢いであいこは俺の手を引きながら長かったはずの廊下をあっという間に通過すると玄関の段差をものともせずに靴箱の戸を引き、靴を抜き取り、玄関に叩きつけてそのまま履くという行為を少しもスピードを緩めずに行った。


 後ろの俺はなんとか玄関に出したままの履きやすい向きになっている自分の靴に両足を蹴り込み玄関の外に引きずられていくとあいこは依然俺の手を引いたままあいこの家の裏に広がる広大な草原を搔き分け進みその先のうっそうとした森へと飛び込んだ。




 それから進んでも進んでも変わらない森のなかをあいこに手を引かれたまま走り続けて五分は経っただろうか俺はをあげるようにあいこに行き先を尋ねる。


「ど、どこまで行くんだ……」

「もうすぐ着くよっ!」


 それに対してあいこは跳ねるような全く疲れを感じさせないような元気な声で答えた。


 三年間部活をやってきた男の自分のほうが先に息が切れ始めていることに情けなく思いながらもあいこの言葉通り薄暗かった森の先には日差しが差し込んできていて描き込んでいない背景のように真っ白に見える。


 そしてその白に飛び込むと薄暗かった森から急に強い日差しに変わって目が眩みよくわからなかったがどこか開けた場所に着いたみたいで俺の手を離し自動車のようにゆっくりとブレーキをかけながら止まったあいこを少し追い越しながら俺も止まり膝に手を置いて悲鳴を上げる寸前の体に急いで酸素を取り込んだ。


「ここ懐かしいでしょ! 昔二人でいっぱい遊んだもんね!」


 いいのか悪いのかゼーハー言ってるそんな情けない俺の姿を気にすることなく後ろから元気よく喋るあいこに呼吸を整えながらゆっくりと顔を上げると目の前には綺麗な川がゆっくりと流れていて不思議と見ているだけで熱かった体は涼しいと感じ始めている。


 けれど懐かしむように話すあいこに悪いと思い言えなかったがあまりピンときていなかった。

 言われてみれば確かにここで遊んでいた記憶はボヤっと蘇るけど本当に言われてみればというものだった。

 それになにかが足りないと感じた。ボールのないサッカーのような蝉の鳴かない夏のような本来そこにあるべきなにかが。


「ねぇ黄介すごいこと教えてあげる!」


 すると学校で持ち寄ったゲームの裏技を教え合うようなテンションであいこはそう言うと前にいた俺を追い抜いて川岸の境目に止まった。

 煮え切らない頭でボーっとその背中を眺めていると長い後ろ髪をなびかせながらあいこは振り返る。


「こうね、片目で見るとなんか絵みたいになって綺麗に見えるんだよ!」


 そしてあいこはそう言うとまるでカメラのシャッターを切るように右のまぶたを下に降ろした。


 その姿を見た瞬間、一瞬寒いとまで感じるほどに鳥肌が立った。そして走馬灯のようにあいこと遊んだ記憶が早送りした映像のように次々と蘇る。


 そうか。なにか足りないって思っていたものはあいこだったんだ。


 昔遊んでいたなんでもない場所の一つ、そのせてしまった記憶もあいこがいるだけで鮮やかに色づいていく。


「どう? すごいでしょー」


 そう言うとあいこは満点のテストを自慢するように笑った。


 人間の目は左右から斜めに物体を捉えているから__なんて説明は一瞬で塗り替えられてその綺麗な景色と俺にウィンクをしているように見えてしまったあいこに釘付けになっているとあいこはまた、そして今度は前から俺の手を引いて言う。


「行こっ!」


 続いて靴のままためらうことなく川のなかへと入っていく。


 その姿にワクワクした。昔の、あの頃遊んでいた映像が重なって。


 そして今度は頭のなかで危険信号なんかじゃなく試合開始の笛が鳴ったような気がして後ろの俺は今度は引きずられないように目一杯スピードを出して一際高い夏の空に向けて何度も水しぶきを上げた。

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