第5話 7月30日 【5】

 高梨を見送ってからいつの間にか俺は自宅に帰ってきていて電気もついていない洗面所で冷たさを通り過ぎて痛みを感じ始めた手に気が付いて蛇口のレバーを下に倒して水を止めた。


 こんなふうにピタッと考えられなくなればなと思う。


 洗面所はもう手のしわが見えなくなるほどに薄暗く高梨と別れた日没前からだいぶ時間が経過しているのがわかるのに俺はまだ高梨のことを考えていた。やっぱり連絡先を交換すればよかったとか強引に家まで送ればよかったとか果ては途中まで送ったのになにもしてくれなかったとか。


 それらをして内心どう思うかわからないし根拠もないけど高梨ならからかうだけで嫌な顔はせずに対応してくれたと長年の付き合いからそう思う。だからこれは結局百パーセント自分のせいだと改めて思い知らされるだけであった。


「黄介ーなにしてんのよー。もうとっくにご飯できてるけどー」


 どのタイミングで夕飯ができたのかわからないが準備が終わってしばらく待ち続けているのだろうリビングのほうからする少し怒ったような母さんの声にハッとして顔を上げると薄暗い洗面所の鏡には鼻に絆創膏を付けた自分の顔が映っている。


『いい加減切り替えてくださいよ__』


 ……切り替えろって双葉に言われたっけ。それに。


 その顔はふがいなくてとても見ていられなかったけど双葉の言葉とともにおかげで重要なことを思い出した俺は洗面所を後にしそしてリビングに入り既に夕飯が並べられた机に座るなり向いに座る母さんに問いかける。


「昔さ田舎のほうに住んでたじゃん」


 いきなりなんだと言わんばかりの母さんは高梨のことから切り替えようとことを忘れないようにと必死な俺とは対照的にゆっくりと両手を合わせてから黒色の箸を右手に装備するからじれったくて思わず少し腰を浮かせながら再び問い掛けた。


「どんなとこだったけって」

「急にどうしたのよ。ていうか母さん毎年行ってるじゃない。黄介、アンタは毎年部活とかで忙しいって言うから」


 俺の質問に対していかにも不満がありそうに返答した母さんはいつもより多く白米を箸でつまみ口に運んだ気がする。


 知らなかった。いや、今までちゃんと聞こうとしていなかったのかもしれない。それがたぶん自分に都合が悪いことだと知っていたから無意識にあの泣いている子から逃げていて今まで思い出そうとしなかったのだろう。


 今更会いに行ったところで許してもらえるかわからないけどやっぱり謝らないといけないよな。


 一番にそう思ったのはいいものの次第に言い訳がサウナに入った時の汗のようにジワリとあふれ出てくる。相手はもう忘れてるんじゃないかともしかしたら人違いなんじゃないかと。


 それ以外にもタラタラと言い訳を適当に弾いた鍵盤みたいに頭のなかで不協和音を奏でたけど最後に鳴ったのは一つの強い罪悪感だった。


 してはいけないこと、しないといけないこと。この世界には色々あると思う。犯罪になることをしてはいけないし人が嫌がることはしてはいけないし学生だったら勉強をしないといけなかったり大人だったら仕事をしないといけなかったりとか。


 そう考えたときに俺はもうしている。


 自分のせいで試合に負けた。それはしてはいけないことだろう。だから引退した今でも部活に出て練習を手伝ったりしている。


 そして理由はわからないけど目の前で友達だった子が泣いていて俺の名前を呼んでいるのになにも言わずにその場から去った。これもしてはいけないことだろう。それでもしてしまったことは仕方がない。


 じゃあそれに対して行うことは逃げることじゃないだろう。それにもし自分が逆の立場だったら謝ってほしいと思うしそもそもそんな奴を高梨瑠璃が好きになるはずがない。だから。


 ようやく終わった自問自答は母さんの大きい一口にも満たなかった。

 行くことを決めた最終的な理由はこれを知られて他人が高梨がどう思うかだったけれど最初の動機の大切だった友達に謝るということは変わっていなかった。


「一応部活は終わったんでしょ? 今年は行く?」


 口を空にして言う母さんに二つ返事で行くと告げ緊張感もなく鳴った胃に夕飯をかきこんだ。






 二人きりで帰ったんだよな。


 それから時刻は午後八時。夕飯のあと風呂を済ませた俺は自室のベットに両手を枕にして仰向けの状態で結局高梨のことを考えていた。


 夢でも見ているかのようだった。高梨と二人きりで並んで歩いて二人乗りまでして好意からくるものではなかったけどあんなにくっついて。


 だけどまたなにもできなくて。


 高梨のほうから伝えられることなんてきっとないとわかっている。だから自分から行動を起こすしかないのに出会ったときから距離は全然縮まらないくせに知りたくないことばかり増えていく。


 高梨は俺が思っている以上に周りにも綺麗に映っていて何回も告白されてるみたいで俺なんかからかわれるだけで相手にされてなくて。


 今日は二人きりで帰って高梨を笑わせることができた。だけど結果がでなければそれはもう止まっているのと同じで。


 いっそのこと嫌いになれたならきっと楽なんだろう。


 でも今の俺があるのは間違いなく高梨のおかげだ。全部が全部高梨のためじゃないけれどいいところ見せたくて勉強とか部活を頑張れたから。いや、でも。


 それから『いや、でも』とx=yがy=xだと気が付かずに延々と代入するみたいに同じことをグルグルと考え続けているとそれが頭の中から飛び出したかのように突然頭上が震えて音を立てたので周りに誰かいたらそれがもし双葉だったなら今度は笑われるぐらいの情けない声を上げながら思わず上体を起こした。


 そして一呼吸おいて自分の部屋なのに誰かに見られていないかきょろきょろと一度周囲を確認してから音の発信源である枕元に視線を向けるとベットのちょっとしたものを置くための棚にチカチカとライトが点滅した自分の携帯が目に入る。


「驚かすなよ……」


 肩透かしを食らいながら手にして間もない上、連絡先が両親しか入っていないその音を聞くことは滅多になかったのでそう言えばこんな音だったなと思いながら携帯を手に取った。


 本当に興味なんてなかった。頭の中はどうせ携帯会社の案内だろうとかそう言えば今日学校に持って行ったときマナーモードにしてなかったから気を付けようとか。


 しかしそんなものはすべてルーズリーフのノートのページを切り取るように容易く消え去った。なぜなら届いたメッセージの宛名は『るりさま』と書かれていたからだ。


 おそらく高梨に携帯を貸したときに登録してくれたのだろうと状況を整理しつつもとにもかくにも内容が気になったのでベットの上で自然と正座になっていた俺は食い入るようにメッセージを開いた。


『親しか連絡先ないなんてあまりにもかわいそうだったから私の登録しといてやったぞ。今度から様付けだからな』


 笑っている顔の絵文字とともに送られてきたそれはいかにも高梨らしい文章でただの文字の羅列に過ぎないのに直接言われたかのようになんだか嬉しくて照れ臭くなって画面から顔を逸らしながらもしみじみ思った。最初は外見に惹かれた俺だけどいたずらな性格のなかに見せるこの優しさがそれ以上に好きなんだと。


 小学生みたいな感想しかでなかったけど好きって感情はすごいなって思った。だって全部頑張ろうと思った。部活も高梨のこともそしてあの子のことも。

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