第4話 7月30日 【4】

「えっちょ、ちょっと」


 それは突然のことだった。高梨は腰にそえた右手とフリーだったはずの左手を繋げ俺の体に一周させながら倒れこむように体とおでこを背中に密着させてきた。


 好きな女子にそんなことをされれば恋愛経験のない俺なんかは当然混乱する。それは自転車にも伝わって間の抜けた俺の声を水撒きでもしているかのように左右にまき散らしながら自転車は勝手に進む。倒れるなとひたすら祈り続けながら。




 それから多分電柱を二本は通り過ぎたろうかようやく舵を取れた俺は依然として背中にくっついたままの高梨に少し強い口調で抗議した。体が触れ合っていることへの照れ隠しと本当に倒れそうで危なかったことに対して。


「きゅ、急に危ないだろ!」


 でもそれは少しやり過ぎだとは思ったけれどいつものように俺をからかっているかと思ったからで俺がなにか言葉を返せばいつもの高い声で笑うと思っていた。


 しかしそれらは全て違った。尾を引く飛行機、やけにうるさく感じる蝉の声、カラカラと回る車輪の小さい音、それらに紛れて静かにすすり泣くような音が笑い声のかわりに背中から聞こえた。


 声をかけるのも確認するのもためらってしまう。見えていないからハッキリとはわからないけど高梨が泣いているところなんて初めてだったから。

 だけどすぐに確認する必要はすぐになくなった。意識を集中させるとおでこがくっついた背中は自転車の揺れとは思えないほどに不自然に揺れていて体に回った手はぎゅっとなにか飛んでいきそうな物にしがみついているように少し痛いぐらいに力が入っていたから。


 後ろに乗っているのが他の誰かならきっと声をかけていただろう。友達、後輩、喋ったことのないクラスメイトだろうと。けれど高梨は、高梨だけは違った。俺は彼女のことが好きだから。


 好きな人が泣いているところなんて見たら普通はきっとなにか声をかけるのだろう。けど臆病な俺は変なことを言って嫌われたくなくて怒らせたくなくてこれ以上泣いてほしくないって思っているのに情けなくも呼吸するだけの口を開け閉めするだけで。

 それに泣いている理由もわかってしまったのも原因だった。泣いている高梨に自分の姿が重なったから。


 最後の試合が終わった日、引退の実感なんて全然なく罪悪感と悔しさはあったけどそれだけだった。


 今まで小学校の卒業や地元のサッカークラブの卒団とかなにかが終わる瞬間に立ち会ってきたけど小学校は大体の生徒が地元の中学校に上がるし俺を含めたサッカークラブに入ってるメンバーはそのまま中学のサッカー部に入部するつもりだったから少し寂しさをおぼえながらもすぐに日常に戻っていった。


 けれど今回はわけが違った。試合の次の日の朝、俺は握りしめた拳がしばらく開かなくなるほどに後悔する。


 その日の朝はいつも通りに起きた。目覚ましが鳴る一分前のきっと普通のサラリーマンが起きるよりも早い時間に。でも。


 あぁもう朝の練習行かなくていいのか。


 そう思った瞬間に階段を転げ落ちるように止まらなくなった。起きるのが辛くて嫌で仕方なかった朝の練習も試合前の独特な緊張感もゴールを決めたあの爽快感も。そしてそれをもうこのメンバーで体験することはないんだと。


 そうすると次第に拳は開かなくなって金縛りにでもあったようにベットから動けなくなって仰向けに寝ていたから後悔の分だけ横に流れる涙を耳の穴で受け止めて受け止めて受け止めきれなくなって遅れてきた筋肉痛に身も苦しめられながらまるで台風が体のなかで起きているかのように枕を濡らして長いこと打ち込んできたなにかが終わるってことを本当の意味で初めて痛感した。痛感してしまった。


 だからきっとそれも含めて俺は罪滅ぼしで今も部活に参加していると思う。

 そしてたぶん今高梨も自分の感情が溢れだしてきているのだろう。部長として俺以上に頑張ってきた高梨だから一回戦敗退なんて俺以上に終わった実感なんてなくて俺以上に悔しくてそれこそ本当に人前で泣いてしまうほどに辛いと思う。


 それに対してかける言葉はあれどきっと正解なんて世界のどこにもなくてましてや俺なんかがかける言葉などもってのほかで。でも。


 解決できないならなにも言えないならせめてとハンドルを強く握って丸まっていた背筋をピンと伸ばした。




 それからしばらくして練習から解放された生徒たちの元気な声も完全に聞こえなくなってきたころ高梨は泣き止んだようで俺の背中から体を離し腰に手を当てるだけの最初の姿勢に戻ったが並んで歩いていたときが嘘のように会話はなくたぶんもう自転車を降りるまで高梨は喋らないだろうと俺は悟った。全然恥ずかしいことじゃないけれど人前で泣いてしまった高梨はそうは思っていないだろうから。


 そして俺もなにも口にできないままイタズラに時間を消費していたがそれに比例して頭の中には次第に焦燥感が強くなっていった。二人きりで帰るなんて仲を近づけるこんなチャンスは二度とないと後にも先にもないと奇跡だと。


 しかし泣いた後の高梨にするような会話は見つからずあと五百メートルもすればお互いの家の分岐点まで達してしまうところまで来てしまった。だが往生際の悪い俺は藁にもすがるような気持ちで眼球を忙しく動かしている。まだ話題になるようなものはないかと。


 すると幸か不幸かそのときなにか小さい石にでも乗り上げた衝撃で前カゴに入っているテニスラケットとシューズの下敷きになっていたはずの自分の携帯電話が顔を出すように小さく跳ねた。


 それを見て持ってきたの忘れてたとはいえシューズやらラケットやらで我ながらぞんざいな扱いしちゃったなと後悔しながらも意を決して沈黙を破った。


「そう言えばさ携帯買ったんだ」


 それは今時ほとんどの中学生が携帯を持つなかで勉強をおろそかにしないかと渋る母さんになんとか取り付けた部活を引退してからという約束で買ってもらった携帯だった。


「今日サッカー部の奴らに連絡先聞こうと思ってたんだけど倒れて忘れてたわ」


 けれど念願だった携帯での友達とのやり取りに必要不可欠な連絡先は俺以外の三年は皮肉にもきちんと引退して受験勉強のために部活に参加しておらず会えていないので一つもなくとりあえず双葉だけでもと校則で禁止されているところをわざわざ持ってきたのに今日のありさまだった。


 そしてそれを高梨に言ったのはただの笑い話の一つにしたかったからではない。あわよくば連絡先を交換しようと思ったからだ。


「あ、あはは……」


 しかしもう俺に飽きたと言わんばかりに倒れたことを笑ったはずの後ろの乗客の反応はまるでなく一際高い夏の空に俺の乾いた笑い声だけが恥ずかしいぐらいにこだましたような気がする。


 言わなければよかったと深く後悔した。言わなければ逆に言えばよかったと後悔したかもしれないけど二人きりで帰って高梨を笑わせることができたという通知表オール五みたいな結果だったのに。


 でもそんな俺のブルーな気持ちが背中から伝わったのか高梨は小さく声をあげる。


「……ねぇ携帯見せてよ」

「えっ、あっはい」


 諦めていた高梨からの反応に自然と敬語になっているのにも気付かないまま慌てて前カゴのシューズの下に戻っていった携帯を掴み取ってリレーのバトンを受け取るような体勢で携帯を渡すと自分でも出したことのないような速度で電子音が鳴った。


「いいなー最新のやつじゃん」


 そしていつもの調子に戻ったような高梨の声色にも連絡先を交換できるのではという期待より壊れるのではないかという不安に終始駆られていると一息つく間もなく高梨は俺のズボンの左ポケットに携帯をねじ込み続いて俺の顔の横まで右腕を伸ばし五十メートルぐらい先からでもわかるところどころ塗装がはがれた濁ったオレンジ色のカーブミラーを指差し声をあげた。


「そこまででいいよ」


 わかっていた。それはお互いの家への分岐点。今はもう待ち合せたりなんかしていないけど小学校まではそこに集まって帰りはそこで別れていた思い出の場所。


 卒業してからもう二年以上経つ。だけど俺はまだそれ以上先に進むことができなかった。そこにはまるで透明な壁でもあるかのようで高梨との心の距離をまじまじと見せつけられるようでいつも小さくなっていくなっていく彼女の背中を見つめるだけしかできなかった。

 そしてその道は普段からも避けて通っている。彼女の心に土足で上がり込んでしまうような気がして。


 でも、今ならと、もしも今ブレーキを握らなければと不意に頭を過った。そしてそれを正当化しようとテスト終了五分前みたいに頭は動いてしまう。このまま送って行ったほうが高梨も楽だろうとか最後まで送るのが義務とか。


 しかしそんなことを考えながら未練がましくゆっくりとブレーキをかけているとカーブミラーに映った自転車は魔法が解けたようにいつもの俺一人を乗せた姿に戻っていた。


「ありがと、じゃあね」


 いつの間にか自転車を降りていた高梨はひったくりのようにテニスラケットを前カゴから抜き取ると部活での疲れを感じさせないような速度でオレンジの先へと駆けていく。


 俺はまたそれを夢から覚めたかのように目の前で乗り遅れた電車を見つめるかのように小さくなっていく高梨の背中が消えるまで動くことができなかった。

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