鬼との邂逅 弐

 奈津の言った通り母──雪子ゆきこは蒼馬と話し込んでいた。

 その腕の中では、燈馬がすやすやと寝息を立てている。


「試衛館に?」


 掻い摘んで今日あった出来事を説明すると、雪子は切れ長な瞳を僅かに見開いた。


「はい。兄上に連れられ、入門して参りました」


 凛はもう一度同じ言葉を続ける。


「……そうですか。この事、父上に言いましたか?」


 二度三度瞬いた後、雪子はしっとりと静かな声音で言った。


「まだです。でも先程ご祈祷が終わったみたいなので、そろそろこちらに来るかと」


 途中からではあるが、尚士の儀式は最後まで見届けた。

 しかし、尚士には宮司としての責務が山とある。


 加えて着替えなども済ませる為、これは長くなるだろうと近くに居た人間に『蒼馬から話があるから、屋敷に来て欲しい』と言伝ことづてたのだ。


 蒼馬は有楽の屋敷に殆ど住み込みの為、あまり生家へ帰る事がない。その為、他の子供達よりも尚士は殊更可愛がっていた。


 凛は、父から愛されていない自覚が無いとは思わない。

 それ以上にずっと、蒼馬の方が気掛かりなのだ。

 未だ幼い燈馬が数年後、桜羅神宮の後継者になる事は決定事項になっている。


 己の思う道に進んだ事で年の離れた末弟の人生が犠牲になる事を、心優しい兄が考えない訳ではなかった。

 今から数年後、蒼馬が生家や燈馬を想い、小さな争いを生む事を凛はとっくに知っている。


(……またあの時みたいな事が起こらなければいいけれど)


 黒いもやのかかる光景が頭に浮かび掛け、凛はそっと目を伏せて耐える。


 己の人生を考える間もなく、物心が付いた頃から『お前は俺の跡継ぎになるんだ』と言われた蒼馬の重圧は、きっと計り知れないものだ。

 それに嫌気がさして、蒼馬は伯父である有楽がおこした鷹城屋──歌舞伎の道へ進んだ。


 そして、それが今度は燈馬の番になる。

 雪子の腕の中で規則正しく寝息を立てている末弟は、この先反発するだろうか。

 それとも、諦観して己が務めを果たすだろうか。


(いや、今考えても何にもならない。それは私が此処に居る事が、何よりの証拠だから)


 何度となく考えては打ち消してきた事に、この時ばかりはほんの少し胸が軽くなる。


「──凛」


 決して大きくはない、けれど小さくもない静かな声音が頭上から降り、凛はそろりと瞳を開いた。


 夫とは正反対な面もあるが、雪子なりに蒼馬を見守ってきた。

 それは凛や弟妹にとっても変わらず、自分なりに多大な愛情を注いでいると言ってもいい。


女子おなごだからといって、舐められてはなりませんよ。我が一族の誇りになるほど邁進まいしんしなさい」


 切れ長な瞳を僅かに細め、雪子はまっすぐに凛を見据える。

 それは母なりの激励だとすぐに分かった。


「……はい」


 雪子は元々、武家の娘だった。

 しかし、お忍びで芝居見物をした帰り、偶然にも尚士に出会って恋をした事で、雪子はその地位を瞬く間に捨てたらしい。


 幾つもあった縁談を跳ね除け、半ば無理矢理家との縁を切った。

 止めようとする者を押し退け、尚士が桜羅神宮の跡取りだと分かると、押し掛ける形で妻の地に収まった。


 元々誰もが羨む美貌を持っていた雪子を、尚士は最初こそ警戒したものの、程なくして所帯を持つ事になる。

 今から数年後の話だが、そうした昔話を雪子から伝え聞いていた。


(人から聞いた事は覚えているのに、どうして私の目で見た事は朧気なのか……まるで分からない)


 凛は記憶力が良い方だと自負している。

 しかし、今はどうだろう。薄ぼんやりとだが、自分の目で『見た』事の殆どに靄がかっている。

 凛が今此処に居る事と、深い関係があるとしか思えなかった。


「さて、蒼馬。明日から凛と試衛館へ行くのでしたか」

「はい。そう周助先生にも──」

「あ、兄上。そのことなのですが、明日は伯父上の所へ行こうと思います」


 蒼馬の言葉を凛は慌てて遮った。

 確かに明日から試衛館へ通うと周助その人に言ったが、先程奈津から願われた事を唇に乗せる。


「師匠の所に?」


 蒼馬だけならず雪子も首を傾げた。

 凛が伯父の屋敷に行く時、必ず蒼馬が迎えに来てくれる。


 逐一顔を見せる為に来ていると蒼馬は言うが、桜羅神宮から鷹城屋の人間達が集う屋敷へは、徒歩で四半刻も掛からない。


 加えて上京するまで何度となく通った道だ。

 幸い、自分の足で歩いた場所はしっかりと頭の中にある為、そう迷う事はない。


「はい。奈津がどうしても行きたいと」


 ちらりと隣りに座る奈津を見てから、凛はまっすぐに蒼馬を見つめた。


「ふぅん、奈津もか。そりゃあ何故だ?」


 そこが純粋な疑問なのか、蒼馬は視線を奈津に向けた。

 奈津は燈馬の姉としての自覚があるのか、あまり両親に甘える事はない。

 その代わり凛に隙あらば甘え、次に蒼馬を慕っていた。


「えっと……」


 しかし、雪子も居るという緊張からなのか言葉尻が小さく、奈津はもごもごと口を開いては閉じてを繰り返す。

 心做しか、凛には小さな身体が更に小さく見えた。


「奈津、はっきりと申しなさい」

「っ」


 どんなに小さな声であっても、雪子の声音は存在感がある。

 怒られたと思ったのか、奈津は更に身体を縮こまらせた。


「まぁまぁ、母上。そんなに急かすのも返って悪いでしょう。どうした、奈津」


 今にも泣き出しそうな気配を察知したらしい蒼馬が、やんわりと間に入った。


「──も、り……で」


 兄からの助け舟に勇気が持てたのか、奈津は小さな唇を動かす。


「いつも、兄上は姉上とばかり、一緒で。……羨ましくて、ずっと寂しくて。奈津も、奈津だって一緒に居たいんです」


 奈津が言葉を発するにつれ小さな身体が震え、やがて大きくしゃくり上げる。


「うん、それで?」


 蒼馬は何も遮らず、そのまま先を促す。


「だから、伯父上の所に居たら、お二人と過ごせると思って。……母様、お願いします。一緒に兄上達と、お稽古へ行かせてください」


 途切れ途切れながら、奈津は懸命に言葉を紡ぐ。

 殆どは凛に言った言葉と同じだが、紛れもない本音がそこにはあった。


「らしいですよ、母上」


 どうですか、と蒼馬はすぐ傍に座る雪子に問い掛けた。


「──凛だけならば良かったんだけれど」


 雪子がひっそりと口の中で紡いだ言葉は、一言一句違わず凛の耳に入っていった。


(母様、それにはどういう意味が……?)


 今まで黙って傍観していたが、雪子が何を思って「凛だけ」と言ったのか、それは本人にしか分からない事だ。


 あまり雪子を詮索する事も無粋であり、何よりそれ自体を雪子は嫌う。

 元が武家の家の娘であると、尚更だった。


「仕方がありませんね。では明日、母と有楽様の所へ参りましょうか」


 その言葉が全員の耳に入っていたのかは定かではないが、にこりと何事もなく雪子は微笑む。


「……はい!」


 雪子からの許しが出た事で、奈津はこの場に居る誰よりも大きな声を出す。

 その声に驚いたのか、母の腕の中で眠っていた燈馬が小さく身動みじろぎをした。

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