鬼との邂逅 参

 暫くして、障子が大きな音を立てて開かれる。


「蒼馬!」


 姿を現したのは、尚士だった。

 若紫色の簡素な着流しに、表地が白に裏地が青の羽織りを羽織っている。


 着物の袷はしっかりと合わせられているが、髪を整える間が惜しかったのか、肩まで揃えられた黒髪は結ぶことなく下ろし、あちこちに跳ねていた。


 僅かに息が上がっている事から、境内から急いで来たのだな、とこの場に居る誰もが思った。


「父上、お変わりないようで良か……」

「蒼馬ぁ〜〜〜! よく来たな、今日もお前は美しくて麗しくて父様は鼻が高くな──うぐっ」


 蒼馬が形ばかりの挨拶をしようとするよりも早く、尚士が飛びかかるように蒼馬へ抱き着いて来ようとした。


 蒼馬は既のところで横に逸れ、尚士はそのまま柱に激突する。

 ずぅんと盛大な音を立て、尚士は後ろに倒れ込んだ。


「毎度毎度止めてくれませんか、父上」


 呆れた声と共に蒼馬が言った。


「見下ろされるのも乙なものだな……」


 恍惚とした表情で、女のように頬を染めて尚士は溜め息を吐く。


「母上、コレはもう駄目です。医師殿を呼んでください」


 くるりと雪子の方を振り向き、心底軽蔑するような声音で蒼馬が言う。


「と、父様……」


 凛は引き攣りそうな顔をどうにか動かし、笑みの形を作る。


(本当にお変わりないようで何よりです)


 儀式の時は否が応でも美しいという感想を抱かせるが、終わった途端にはこれだ。

 この分では、蒼馬が家を出て伯父の屋敷へ住み込むようになった原因に気付いていないだろう。


「尚士様、あまり蒼馬へそのような事はお止めください。宮司である貴方様がその体たらくでは、民に示しが着きませんわ」


 こちらも呆れた声と共に、雪子がいさめる。


「俺は本音を言ってるだけだ。それでどうした、蒼馬。この父に何か話があるのだろう? ん?」

「話、ですか?」


 じとりとした視線を尚士に向け、続いて凛の方に顔を上げる。


「おい、まさか俺の名を出したんじゃないだろうな……」


 尚士の口振りから合点がいったようで、蒼馬はうんざりとした口調で言った。


「す、すみません」


 蒼馬のことになると脇目も振らず、一目散に来る尚士の性格を逆手に取ったのだ。


(当然怒られてしまうと分かっていたけれど、他にどうしろと言うの)


 仮に凛が呼んでいると言付けていたら、尚士はここまで急いでは来なかっただろう。

 蒼馬と違って凛は生家で寝起きしている為、夕餉の時の流れで言うだけで終わるのだから。


「いや、いい。凛なら」


 慌てて蒼馬は眉尻を下げる。


「と、言い忘れるところだった」


 そこで何かを思い出したのか、蒼馬は小さく手招きをした。


「おいで、凛」

「……はい?」


 打って変わって優しげな口調に誘われ、凛は言われるがまま蒼馬の元へ膝立ちでにじる。


 雪子が行儀が悪いとたしなめるも、凛には聞こえてこなかった。

 凛が傍までやってくると、やんわりと蒼馬の腕の中に抱き込まれる。そして、誰にも聞こえないように耳元に唇を寄せられた。


「明日、師匠の所に行ったら試衛館においで。俺は路地の所で待ってるから」

「試衛館に、ですか?」


 内緒話をするように、凛も小さな声で訊ね返す。


「ああ、会わせたい方がいる」


 ひっそりと紡がれた言葉の真意を疑問に思いつつも、凛は頷いた。

(会わせたい方、って誰なんだろう)


 奈津や雪子も共に有楽の屋敷へ行くが、その後試衛館に行くかは分からない。

 二人の前では言えない人間なのだろうか。


(土方さんなら嬉しいけれど……何処に居るのかは誰にも分からないんだっけ)


『いつこっちに来るかは分からないけどね』


 総司が言っていた言葉を頭の中で反芻する。

 流石に今日の明日で勝太と何処かで会っている土方が、試衛館を自ら訪ねる事はまず無いだろう。


(早く会えるなら、それに越した事はないけれど)


 こうしている間も石田散薬を売り歩き、道場破りをしているであろう土方に凛は思いを馳せた。



 蒼馬が数日前から今日まで起きた出来事を大抵話し終わる頃には、空は柔らかな茜色に染まっていた。


「蒼馬、今日こそ泊まって行ってくれても──」

「泊まりません」


 涙ながらに懇願する尚士の言葉に、蒼馬は微笑んだまま間髪入れず言った。


 蒼馬が有楽の屋敷へ住むようになってから、こうして家族揃って見送るという習慣が付いていた。

 蒼馬は止めてくれと頼んでいるが、それでも頑なに見送る両親に諦めきっているらしい。

 今日は燈馬がぐっすりと寝ている為、末弟以外の全員が揃っている。


「ううっ、息子が冷たい……」


 ぐすぐすと涙目になりながら鼻を啜る尚士の姿は、およそ宮司とは思えない出で立ちだ。


「尚士様!」


 膝を着いて項垂うなだれる尚士を、雪子は着物が汚れるのも構わずしゃがみ込み、そっと肩を支えた。

 そんな両親に向けて蒼馬は一瞬寂しそうな、なんとも言えない表情をする。


(兄上……)


 過度な父の可愛がりがなければ、蒼馬は何事もなく此処から有楽の屋敷まで毎日通っていただろう。


 しかし、甘えているばかりでは駄目だと思っていたのも事実なはずだ。

 何も歌舞伎の道に進むだけならば、ここまでの事にはなっていないのだから。


「じゃあまた来ます。明日な、二人とも」

「わ」

「ふふ、姉上と待ってます!」


 やや雑に撫でられて驚く凛とは対照的に、奈津は嬉しそうな声を上げる。

 そんな奈津ににこりと微笑むと、蒼馬は急ぎ足で有楽の屋敷までの道を駆けていった。



 ◇◇◇



 蒼馬が有楽の屋敷へ帰っていくのを見送り、一刻が経った。

 その頃になると燈馬も起き出し、揃って夕餉を済ませると、凛は自室に戻ってぼうっと天井を見つめていた。


 やはり薄ぼんやりとだが、記憶の中にある自分の部屋となんら変わらない。


(本当に過去に居るんだ)


 何度となく思った信じたくはない現実を、ここに来てやっと実感する。

 凛が座っている畳の匂いも、この部屋に満ちる自分が居たという証も、全てが紛れもない現実だった。


 自分の知る人間達の態度に僅かな違和感を持つが、さほど気に止めなければ何も変わらない。

 ただ、もう一度同じ事を繰り返しているように思えてならなかった。


(そうしたら、私は……私は、どうしているんだろう。死んではいないと思いたいけれど)


 思い出す事は、蝦夷で意識を手放して以降の事だった。

 一人で蝦夷の大地を踏み締めている時に桐生が現れ、薄れゆく意識の中、誰かに自分の名を呼ばれた気がした。


 どこか懐かしく、それでいて愛おしい声音でたった一言『凛』と呼ばれたはずだった。

 目を覚ますと目の前に幼い頃の兄が居た為、蒼馬に呼ばれたのだと思った。


 けれど、違う。

 あの時の声はもっと深く、心の奥底から欲する時の声音だったのだ。


(もしかして、八郎さんが呼んでくれた……?)


 八郎が迎えに来てくれたのならば、何も言う事はない。

 しかし、そう仮定してしまえば今この場に凛が居る事自体がおかしいのだ。


 人は死ねば黄泉へ行く。

 そうして数百年を天界で過ごした後、新しく生まれ変わるのだと知った。


 生まれ変わるならばいざ知らず、もう一度同じ出来事を繰り返すなど、聞いた事がない。


(仮にそうだとしても、私が此処に居て何かいい方向へ行く確証はまったく無い訳だし。こんな事、誰も信じてくれそうもない)


 未来から来たと少しでも口を滑らせてしまえば、怪しまれてしまう。

 今日の総司の時のように、僅かでも気を緩ませては二の舞になる事は確実だった。


 そっと凛は立ち上がり、閉じていた障子に手を掛ける。

 細く開けた隙間から、丸く美しい月が顔を覗かせていた。


 一度眠ってしまえば、もう一度あの場所へ戻れるのだろうか。

 そんな僅かな希望が、凛の胸をじわじわと満たしていく。

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