第16話 クーという男2
「ええと、エリナさん。このコップはどこに置けば?」
「ミルクを入れるわ。今日は安く譲ってもらったの。かして」
「ミルク」
「牛の乳よ。クー、あなた、もしかして知らないの?」
「いえ……その、実は、飲んだことはたぶん、あるのですが、それがミルクだと認識して飲んだことはないといいますか」
「食に興味がなさすぎるわ……。私のシチューで同じことしたら怒るわよ」
腰に手を当てて、ぷう、と頬を膨らませ、怒るふりをする。
エリナのそんな様子に、一瞬、あっけにとられたクーは、一拍ののち、ふは、と笑った。
「肝に銘じます。エリナさん」
「よしよし、いい子」
エリナは、自分よりずっと背の高いクーの頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
――と、そこではっとする。たしか、竜種の弱点は頭だ。そんな部分を無遠慮に撫でられて、不愉快どころの騒ぎではないのではなかろうか。
「エリナさん……?」
「……?怒ってない、の?」
「何を?」
不思議そうな顔をするクーに、おそるおそる尋ねる。質問の意図を察したのか、クーはへらりと笑って頭を差し出した。
「撫でられることなんて、もうずいぶんありませんでした。嬉しいです」
「そ、そう……?」
頭を垂れたクーは、続けて、と言う風に手を振った。
おっかなびっくりな手つきでエリナがそろそろと頭をなでると、クーは嬉しそうに満足げな息を吐いた。
ひとしきり撫でられて、クーが頭を上げる。その顔はふにゃ、と崩れていて、けれど美青年がそれをするものだから破壊力がものすごい。
エリナだって年頃の乙女だ。
少しどきりとした胸を押さえ、差し出されたままだったコップに、今日買ったばかりの新鮮なミルクを注いでいった。
木目の、少し古いテーブルの上にはほこほこと湯気のたつ乳白色のシチュー。
それから残り野菜のサラダと、昨日買ったパン。
それに新鮮なミルクを添えて、エリナは台所に置かれた小さな箱を椅子代わりにして食卓に着く。
「僕がそちらに」
「クーじゃ箱が壊れちゃうわ。重そうだもの。それにあなた、一応お客様ですもからね」
「ですが……」
「ほら、冷めちゃうから。席について」
「……はい」
クーを言いくるめて、エリナは両手を祈りの形に組む。
簡単な食前の祈りを捧げて、木の匙を手にとった。
ひと匙口に含んで咀嚼する。うん、おいしい。
ジャガイモはホクホクでほんのり甘く、スープに絡んであたたかく胃の腑に落ちる。
ニンジンも甘くて、肉は柔らかい。ミルクとバターふうわりとした香りと相まって、鼻も楽しませてくれる。
エリナは頬に手を置いてにっこりと「私って天才だわ」と自画自賛した。
湯気の立つシチューはまだたっぷりある。
これにはクーも満足だろうと思って、ふと前に視線をやった。驚く?それとも喜ぶだろうか。満面の笑顔で食べている様子が目に浮かぶ。
しかしながら、さぞかしおいしそうに食べているだろうと予想した青年の顔は、エリナが想像したどんな顔でもなかった。
「…………」
クーは泣いていた。
ぽろぽろ、ぽろぽろと涙がこぼれてはシチューの器に落ちていく。
「く、クー!?」
エリナがハンカチをもってその目元を拭ってやると、クーはされるがままに涙を拭かれて。
けれど、拭うそばから涙があふれてとまらないのだ。
「どうしたの?味付け、苦手だった?」
「ちが、違います」
クーは、その青年の見た目に似つかわしくない、子供のような仕草でぐいぐいと涙をぬぐった。
真っ赤な目が緑を隠してもったいない。エリナが恐る恐るその手を取ると、クーはまだ涙を流したまま、笑みを浮かべて言った。
「おいしい、おいしいです……」
「そ、そう……」
「大切なひとが作ってくれたシチューと、同じ味がします」
「ええ?そんな、たいしたものじゃあ、ないと思う、のだけれど」
エリナは目をそらした。だって、どこからどう見たってこれは普通のシチューだし、味付けだって取り立てて特徴のあるものでもない。
なにかの間違いでそう思っているのかもしれない、と思ったけれど、そう思うにはこの青年――クーの態度は奇妙過ぎた。
「おいしい、おいしいです、とても」
「それは、よかった、わ?……でも、本当に、普通の味付けしかしていないのよ」
「僕にとっては、特別な味なんです……」
クーはそう言って、おいしい、おいしいと何度もシチューをお代わりした。
もう数週間はなにも食べていない、みたいな食べっぷりに驚きつつも、エリナはクーが食事をする光景を、どこか懐かしい気持ちで眺めていた。
「クー、私の分も食べていいわよ」
「それは、さすがに」
「ふふ、変なところで遠慮するのねえ、あなた」
「女性の食事を奪うような教育は受けていませんよ」
「教育、教育、ねえ」
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