第15話 クーという男1
ことこととシチューを煮込む音がする。
ふうわり香るミルクの香りが鼻腔をくすぐって心地よい。
こんな時でなければパンに浸してすぐにでも口に入れたいほどの良い出来だ。
……が。
エリナは、今まさに自分の背後に張り付くようにして煮込まれる鍋の中身を見つめている青年にげんなりと額を押さえた。
エリナが引きずって帰ってきた青年は、はじめこそ疲れ切ったように倒れていたのだが、エリナが料理をし始めると、何かの匂いを嗅ぎつけたのかぱちりと目を覚ました。
覗き込んだ青年の、開かれた目の瞳孔は縦に長く、彼が竜種であることを告げてくる。
今生では竜種にかかわらないと決めていたのにすぐこれだ。
エリナは自分が悪い星のもとに生まれているのではないだろうかと本気で思った。
……それにしても。
エリナはベッドに起き上がった青年をちらりと横目で見る。
暗がりでも思ったが、明るいところで見ればよりわかる。
見れば見るほど輝くばかりの美丈夫だ。座っているのにわかるほど上背があり、エメラルドグリーンの目は形のよいアーモンド形。
はちみつ色の髪はやわらかそうにふわふわしている。
すっと通った鼻筋に、薄い唇。それらすべてがバランス良く配置された、非常に美しい顔をしている青年。
その色彩は、いつか大切にしていたあの少年と同じで。
だからきっと、エリナは情が湧いてしまったのだろう。
だからきっと、家にまで上げてしまったのだ。
そう結論付けて、エリナは青年を食卓に座らせて、台所へ戻り、シチューの鍋をかき混ぜた。
「もうすぐにできるから、そこで待っていて。おなかすいてるんでしょう?」
「え、あ、はい」
「いい子ね」
いい子、なんて大の大人には使わない言葉だろう。
それでもなぜかこの言葉遣いになってしまったのは、この青年がクリスに似ているからだ。
声も背丈も何もかも違うのに、その目の奥に見えるやさしい色が、クリスとダブってしまった。
感傷に浸りそうになって、エリナは鍋に向き直る。焦げては失敗だ。ゆっくりゆっくり、弱火で煮込むのが肝要なのだ。
「……きゃ!ちょっと、あなた、危ないわよ。火を使ってるんですからね」
「シチュー、ですか?」
「……そうよ。もうすぐできるって言ってるのに。そんなにおなかがすいてるの?」
いつの間にか背後にぴったりと張り付いていた青年に驚いて悲鳴をあげると、青年のはちみつ色の髪が揺れた。
けれどすぐに、おなかを押さえる子供みたいな動きと、次いで聞こえた「ぐぎゅうううう」という地鳴りにも似た大音量に、エリナは思わず声を立てて笑ってしまった。
「ふふ、あはは!もう、大丈夫よ。シチューは逃げたりしないから」
「あ、ええと、あなたは……」
「私はエリナ。あなたは竜種?身なりがいいから、竜種の貴族かしら。だめよ?竜種だからって、竜種の生命力に胡坐をかいて食わず嫌いしてちゃ」
「僕は……ええと、その」
「大丈夫よ。名前は聞かないわ。こんなところで行き倒れてるなんてたいてい訳アリですものね」
名を聞かれて口ごもった青年の言葉を掬うように、エリナが続ける。
ほっとしたように青年の目が細くなった。
「……ありがとうございます」
「でも、あなたを呼ぶとき困るわね。……ううん、そうね、あなたのこと、クーって呼ぶわ」
「クー?」
「昔の知り合いの名前からとったの。あなたと目が良く似てるから、クー。いいでしょう?どうせご飯を食べて帰るまでだし」
そう言って、エリナはクーとつけた青年を食卓へもう一度座らせた。
クリスとよく似た青年だから「クー」なんて自分でも単純だと思う。自分に少しだけ呆れながら、鍋をかき混ぜる手をちょっと大きく動かした。ちゃぽ、とシチューが跳ねる。
ところで、最初はおとなしく座っているクーだったが、しばらくするとうろうろとさまよったあげくにエリナの料理している鍋を覗き込んでくる。
そのたびに、エリナは子供にそうするように「危ないわよ」と席に連れ戻すのだが、クーは何度も何度も戻ってきてしまう。
そんなに料理をしている光景が珍しいのだろうか。
竜種の貴族は調理過程を見ることもない?……ありえるかもしれない。
彼らときたら、強者特有の高慢さで、尽くされて当然、と思っているふしがある生き物だから。
料理する過程も見たことがなく、だからエリナの行為が物珍しいのかもしれなかった。
「クー、そろそろできるわ。シチューをよそうから、そこの棚にある、そう、そのお皿をとってくれる?ありがとう」
「このくらい、手伝いのうちにはいりませんよ」
おそらく竜種貴族だというのに、クーはやけに腰が低い。
たぶんそれが、エリナが緊張せずに話せている理由なのだろう。竜種貴族相手にこんな態度、平民の首がいくつ飛んでも足りないくらいなのに、なぜかエリナは砕けた口調で話してしまうし、手伝いだって頼んでしまう。
クーの様子を見ても、クーは気分を害した様子はなく、むしろ生き生きと食卓の用意をしている。名前も知らない、会ったばかりの関係なのに、この空気はなんだろう。
どこか懐かしいような気さえするこの雰囲気は、けして不快なものではなかった。
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