第4話

 私は颯爽と夜の闇を切り裂いて、駅近くのビルへ辿り着いた。ここの最上階、キツネ亭の更に上が目的地。まずは、キツネ亭の前までエレベーターで上がってみる。

 開店後の電話取材は上手く行かなかったけど、お店の方は繁盛しているらしい。一度中を覗いて声を掛けてもいいけど、先に直撃して空振りしてから考えよう。

 私はお店の前から、更に上へ向かう階段の前に移動した。今朝と同じく、ロープと「関係者以外立ち入り禁止」の札が掛けられている。管理会社に連絡して話を通した方がいい気もするけど、朝も何も言われなかったのだから、見られなければ意外と押し切れるかも。

 後で何か言われても、会社のせい、編集長のせいにすればいい。私は腹を括り、一応辺りを見回してから、ロープを跨いだ。誰かが通る前に、素早く上の階へ登った。今朝、慌てて飛び出してきたのと全く同じ扉の前まで来た。今朝と違って、今は月明かりが燦々と降り注いでいる。

 月明かりを頼りに周囲をちょっと観察してみる。表札は出ていない。鉄製っぽい扉のドアポケットに、何かが挟んである形跡もない。周りに他の部屋はなさそうだけど、「立ち入り禁止」の札がなければ、ごく普通のアパートの一室に思えるぐらい、これといった特徴が見当たらない。

 私はドア横の、埃まみれの呼び鈴を押してみた。押した手応えがなく、音もしない。これは多分、壊れている。ダメ元で、ドアを三回ノックしてみた。しばらく待ってみるものの、返事はないし、ドアが開く気配もない。

 ここまで来たら、全部試してやる。私はどうせ空振りだろうとたかを括って、ドアノブを捻った。そのまま手前に引いてみる。チェーンも施錠もされておらず、普通に開いた。いや、無防備すぎるでしょ。一人心の中で突っ込んでから、そっと部屋の中へ入ってみた。

 別に少しくらい物音を立てても平気な気もするけど、一応不法侵入。相手も要注意人物かもしれない。居留守を使われていたケースも考慮に入れて、できるだけ静かにドアを締める。

 耳をそば立ててしばらく待ってみても、目立つ音は特にない。私は何度か深呼吸を繰り返し、過度の緊張を身体の外へ逃した。イケナイことをしている緊迫感と、月明かりしかない部屋の暗さにドキドキは相当高まっている。

 部屋の中も今朝と全く同じで、足の踏み場もないレベルで散らかり放題だ。私の部屋もそこまで綺麗な方ではないが、流石にこのレベルではない。先の尖ったものにも注意を払い、すり足で行く先の安全を確かめながらゆっくり進む。重心も落とし気味に、静かにリビングの方へ進んだ。

 目の前に広がる光景に、私は思わず息を呑んだ。今朝まで私が寝ていた椅子も、突っ伏していたテーブルも、何一つ変わっていない。目覚めた後、意味がよく分からず触れずにいた一万円札も、同じ場所に置かれたままだった。唯一違いがあるとすれば、重石代わりだったケータイが無くなったからか、一枚の十円玉に変わっていた。

 私は恐る恐るその十円玉を拾い上げてみたが、裏も表もなんの変哲もない十円玉だった。製造年月日が浅いわりに、早々に黒ずんではいた。

 もし、ここに人の暮らしがあれば、もう少しモノは動きそうなモノなのに、床の上に散らかっていたモノも、特に変化はない気がする。無施錠なのに、一万円札が無事なのもよく分からない。

 とにかく何らかのヒント、物証を得て立ち去ろう。指紋の一つでも採取できれば、いい糸口になるかもしれない。って、十円玉を手袋もせずにベタベタ触っちゃったら、意味ないじゃん。慎重に取り扱えば、そこから指紋が取れたかもしれないのに。

 自分のバカさ加減に頭を抱えていると、背後から急に声が掛けられた。

「あ、今朝のオバさんじゃん」

 私は急な展開にびっくりして、尻餅を着きそうになる。同時に悲鳴も上げかけたのに、どっちも少年の手で防がれた。彼は私の腰と口をそれぞれ塞ぎ、腰の抜けた私をゆっくり立ち直らせる。

「大声は困るなぁ。珠緒さんに怒られちゃう」

 彼は人差し指を口元に当て、静かにと私にウィンクした。私は無言で首を縦に振り、同意を示した。ポカンと開けていた口を閉じ、乱れた服を整える。

 彼はテーブルに視線をやった。

「アレ、十円だけで良かった?」

 私が十円玉を握りしめているのを見て、彼は首を傾げる。私はそっと、十円玉をテーブルの端に置いた。彼は私の一挙手一投足をジッと見つめている。

「やっぱり、どっちも要らなかった? 大人だもんな。千円未満じゃ返金不要か」

 彼はそう言いながら、テーブルの一万円札と十円玉をポケットに突っ込もうとする。私はその手を掴み、「ちょっと待って」と言った。

「返金って、何?」

「だから、昨日の」

 彼はもう一方の手で、ポケットの中からレシートを取り出した。私も今朝行ったハンバーガーチェーンのレシートだった。金額は税込で960円。昨夜の時刻が刻まれている。

「昨夜の晩メシ。自分のせいだって、お金出してくれたじゃん。覚えてない?」

 彼は、レシートが入っていたポケットへ手を入れて、コートの内側から穴が空いているのを私に見せた。小さな穴ではなく、指が二、三本出てしまいそうな大きな穴。私はその穴と、向こうに見える少年の指をジッと見つめる。

「あっ、」

 さっき大声禁止の注意を受けたのに、私は思わず大きな声を出してしまった。自分で口を塞ぎながら、少年に「ごめんなさい」と謝った。そうだ、昨夜彼を追いかけ回した時に、コートに穴を開ける原因を作ってしまったんだ。

 その瞬間は何にも気が付かなかったけど、そこにお金を入れてたらしく、ご飯を買うために立ち寄った時、お金がなくて困っていたんだった。私は責任を感じて、おまけのシェイクを合わせて代わりにお金を出したんだっけ。

 その後も彼を付け回し、彼は彼で家に帰ってお金を返すと私を自宅に招き入れたんだった。お金の件もほどほどに、私は他愛もない話から取材を進め、肝心なところへ入る前に睡魔に襲われたんだっけ。

 少年は、どう見ても同年代、社会人には思えない。万が一、未成年となれば、怪しい人物、取材対象とはいえ、ホイホイと家に上がり込んで二人きりは、やっぱりよろしくない。

 一万円札を私に差し出した少年の顔を、私はジッと見つめる。窓から降り注ぐ月明かりに照らされた美貌は、ますます怪しい魅力に満ちている。イケナイとは思いながらも、視線が勝手に吸い寄せられる。

「やっぱり、要らない?」

 心地のいいイケボで言われると、理性などそっちのけで間違いに走りたくもなる。でも、まだ早い。肝心なところを掴むまで、私の理性よ、仕事しろ。

 私は美少年の魔力を振り払い、彼からお金を受け取った。流石に貰いすぎだし、九千円は返そうと財布を開くが、細かいお金が入っていない。千円の余計な出費は痛いが、ここは大人の余裕を見せておく。私は受け取ったお金を少年に突き返し、「やっぱり、要らない」と言った。

「じゃあ、ご厚意に甘える」

 彼はお札をコートのポケットへ、そのままクシャッと突っ込んだ。彼は、自分の家の中だと言うのに、さっきからズーッとコートを着たままだ。暖房どころか照明もついてないこの部屋は確かに寒いが、それなら暖房を付ければいいのに。

 私は彼に手を差し出した。

「ポケットの穴、繕おうか?」

 別に裁縫は得意ではないけど、提案に乗ってくれば、きっとコートは取り払われる。彼はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、首を横に振った。

「それで、オバさんの用事は?」

 彼は声の調子を一段落とし、私を真っ直ぐな目で見つめた。言葉遣いはフランクだったけど、鋭い目元は軽口や冗談を許す気配はない。ひんやりと張り詰めた空気に、不穏な敵意が混ざり始める。

「やっぱり、ノクターナス……?」

「へぇ。意外と、有能なんだね。オバさん」

 彼は顔に不思議な紋様を浮かび上がらせ、私に右掌を向けた。彼から漂ってくる威圧感が凄い。これが、もしかして殺意ってやつ? 私は必死に貧弱な頭を回転させ、切り抜け方を考える。

「正体がバレたから、殺す?」

 彼は謎の機械音を発しながら、右掌を複雑に変形させる。何の変哲もなかった腕は、人の腕だった形跡を残していない。朽木も、この手に寄って殺害されたのだろうか。

 彼が次の動きを取れば、私もこれまでの被害者の様に死体になる。それを予感させる不穏な音を全身に浴びながら、私はただ処刑を待った。しばらくそのまま待っていると、彼は変形させた腕や手を元に戻す。

「やっぱ止めた。奢ってもらったし、バカそうだし」

 彼は威圧感も引っ込め、柔らかな表情で私に笑顔を見せた。

「ちょっと、バカって何?」

 私は彼に詰め寄った。延々とオバさん呼びするのも、訂正を求める。

 とりあえず私は、窮地を脱した。たかが千円奢っただけで、死を免れた。千円で買った命という事実、その金額に卑屈な笑いを浮かべながら、彼の秘密と正体を探ることに改めて腹を括った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る