12月28日

- -  1978年12月28日(木)


 耐え難い。


 今日は善い一日で、今日は悪い一日だった。身体が冷たくて仕方がない。幻聴の音量が上がったり下がったりを繰り返している。音は、膨張と収縮と表現した方が或いは相応しいかもしれない。善い一日だった。悪い一日だった。身体が冷たい。幻聴が誰の声であるか追究することを諦めた。悪い一日だった。幻聴が幻聴ではない可能性が煩わしいが、善い一日だった。

    この記述が理性的でない可能性を指摘する

 いつからかおかしいと思うようになっていた。いつからだったか。僕は庭を見ていたが、庭を見ていたが、庭を見、おかしいと思うようになっていた。いつだったか忘れたが、母について整合性が取れないことがあった。母の没年。父の発言の内容。それらの辻褄が時折合わないことがあり、幻聴。膨張する幻聴がうるさいので、詳しいことは今思い出せないが。悪い一日だった。

 そう、母について辻褄の合わないことを思い出して、

 あ

 これ以上は嫌だ冷たい冷たいうるさい冷たい冷たい冷たいうるさい寒い。認めたくない受け容れられない! 全部受け容れて生きたかった、生きたかった聴きたくなかっただが死にたいと思えない生への固執無意味なのにみんな無為なのに意味が欲しい、僕の思惑通りになっているのにろくに味がしない僕が喰べていいはずだったのに。僕は僕の無意味な日常を喰べるはずなのにうるさいうるさい声がうるさい。

 こんな場所捨てて西方の聖街に行きたい。西方の街も閉鎖されているだろうかここと同じように、朽ちてゆく途中だろうかそれとも未だに街として健在なのか。意味のない想像妄想だ声声人々が暮らす音と賑わい声幻聴悪魔が喜怒哀楽がそこに溢れて、猥雑ながら生気に満ちた暮らしそれは、ここに無いもの。ここが失くした生の力、数多死んで愚行の果てにゲヘナだけ大穴の怨霊あるいは西の街は恐怖政治だろうか? 抑圧された人々の集団がかの街にも居るのか神の供物となるためだけに。捧げ物の型からはみ出ぬよう押さえつけられた人間それは尊厳なく。冷たい。人を縛る宗教この宗教は人を縛る宗教。縛る人を。僕も縛られているのかもしれない。ああ嫌だ僕も、

    見るに堪えないな

    もうやめればどうだ

 うるさい。

    おまえがいくら泣いても届かないぞ

    さっさとやめるべきだろう

 何をやめろと? 記録をか?

    違う


    狂人のふりをして

    狂人の文を装うことをだ


 、

 だから入ってくるなと言っていたのに。うるさい奴だな。


    ここまでの文章は所詮狂人の真似事だろう

    今の僕は確かに理性的ではない

    しかし僕は届かないのだ

    本物の狂人には成り得ない

    僕の狂気の総量は

    正気を捨て去るには遥か足りない


 ああ実にうるさいな、気くらい僕の好きに狂わせてくれ。精神乖離でも何でもして僕は逃げたいんだよ。


    いいやおまえには無理だよ

    即ち僕にも無理だ

    おまえの俯瞰的な理性は強すぎる

    おまえはたとえ気を違えたいと思うほどの

    想像を絶する辛い目に遭っても

    絶対に理性の眼を捨てられないよ


 厭な奴だな。本当に厭な奴だお前は。人が折角正気を捨てようと試みて筆を走らせていたというのに、じゃあ僕には気狂いになって世界を直視せぬ者になるという最後の逃げ道すら残されていないと、そういうわけか?


    そうだとも

    一生 知的に冷静に

    苦しんで君臨するがいいよ


 黙れ。消えろ。



 あぁ。

 夢を見ていたんだ。今朝方、眠りの中で。

 西方の街の夢だ。この街とは違う、もっと遠くの御伽の国のようなその街に、聖獣が舞い降りるところを僕は見た。

 聖獣の細かな姿かたちは忘れてしまったが、狂おしいほどに美しい眺めだったことを憶えている。数多の豊かな色彩が空から地上へと降りそそぎ、そしてこの世ならざる麗しき獣が、街ひとつを丸ごと喰らい尽くしてみせたのだ。人も、建物も、自然も。聖獣は何もかもを等しく壊し、その波打つ腹の中に収めていた。

 僕はそれを見て、どうしようもなく「救われた」と感じ、気付けば安堵の涙を流した。

 無論夢から覚めればこの世に救いなど訪れておらず、ただ昨日の続きの一日が始まっただけであったが。それでも僕は、夢の中で確かな救いの光景を視たのである。

 もしも教義が本当ならば。

 僕は思うのだ、聖獣が降りるのはこの街ではなく、他の派閥の街でもなく、遥か西のどことも知れぬあの街に違いないと。だからいつかその街を見つけ、訪ねてみたい。聖獣に逢えるように。目覚めて落胆と絶望と、無為と化した涙の残滓を感じながらも、僕は己の内に西方への微かな思慕を見出した。今はそれだけが僕の身体を支えている。



 さて。嫌な話も書くか、書かねばそれこそ気が狂いそうだから。つくづく記録行為への依存症である。

 母について辻褄の合わないことがあるというのは、残念ながら事実である。

 今日の夕方頃、世話役の女がこれから住まう離れの整備がやっとひと段落した。早くそちらへ落ち着いてもらうために、離れの奥の物置部屋から出てきた、彼女に必要のない当家の古い品々をひとまず僕がまとめて引き取ったのだが、その中に妙な物品を見つけた。

 題して当家の『葬儀目録』。ここ百年間ほどで、我が家の域内で死んだ信者たちの名を纏めてある目録だった。この聖域内で死んだ者は、聖域内で弔われるのが慣例である。信者たちの遺骨を納めた墓地もある(墓地には特段老朽化の問題がなさそうであったので、僕は今まで触れてこなかったが)。僕は現在、常に身体の冷たさから気を逸らしてくれるものを求めているため(情けないことである)、夕食の後に部屋で何とはなしにその目録を眺めていた。目録にあるのは

・信者の名前

・誕生日と命日

・大まかな死因

・その者の葬儀の責任者

・骨を埋めた日付と場所

の項だった。するとその中に母の名前を見つけた。しかし見てみると、明らかに不自然な点があったのだ。

 母の没年、1958年に対し、骨を埋めた年は1964年と書かれていたのである。何故か六年ものずれがある。これは一体どういうことだ?


 ああ、今日は狂人になろうと努力していたら随分遅い時間になってしまった。我ながら馬鹿な試みをやったものだ、今日の日記も前半部分は見返したくない。しかし幻聴の悪魔め。お前という酷い幻に惑わされていてなお、それでも僕は狂えないと言うか。

 母についての考察は明日にする。幻聴の中でも眠れるようになってきた、呆れた適応力だ。それとも人間の慣れなどそんなものか? せいぜいまた聖獣の夢を見られることでも願って就寝するとしよう、忌々しい。

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