12月26日
- - 1978年12月26日(火)
うるさい。声が。
この日記もいつまで冷静に記述していられるか分からない。昨夜から幻聴に悩まされている。
誰だ、何の声だ? と訊いてみても声は答えない。だが喋りつづける。何様のつもりだ? 勝手に人の頭の中に巣食って、そのくせまるで実体を持ってそこに居るかのような立体的な声を垂れ流しくさって。初めに聞こえた時は流石に僕も固まった。慌てふためくというより、身動きができなくなった。しばらく周囲に耳をそばだて、家の中を何回か見回り、そして確信した。これは幻聴だと。僕以外には知覚されることのない仮想の声であると。
ほんとは知っていたんだろ
やめろ入ってくるな。
ある程度の客観的な自己認識を得た後でも、昨夜は眠れなかった。意識が薄れて落ちかけたところで声が、壁の向こうから聞こえることもあれば耳元二センチで聞こえることもあるが、僕を覚醒状態へと引き摺り戻すのだ。毎度毎度。苛立ってひたすら左の拳を握っていたらいつの間にか掌に爪四本分の傷ができた。流血して危うくシーツを汚すところだった。また赤色を見てしまった。汚い。
赤を忌避しているというのも半分は偽りだよな
やめろ、だから入ってくるなと言ってるだろう。
まずい時間がない。
眠れなかったからベッドの中で日記を読み返していた。そしたら異常に気付いた。おかしいのはたぶん12月21日の記述から。21日から僕の書いた覚えのない言葉が所々に混ざるようになっていたのだ。確かめたら22日の僕が「昨日書いたものを読み返せない」と言っていた、そうだ僕は21日以降の記録は、書くだけ書いたら自分で一回も読み返していなかったんだ。だから変だって気付けなかった。書いた覚えのない言葉が混ざっていること。書いた内容を自分で憶えていると思ったら大噓だった。知らない奴が誰か居る。
間違いなく僕の字なのだが、句読点がなくて、行の真ん中の方に脈絡なくポンと書いてある言葉があったら僕じゃない。それらは僕じゃないんだ、直感だけどきっとそいつが幻聴の声の主でもある。
違うよ 何故逃げる
うるさい! 何も違わない、僕じゃない。書いた覚えがないんだから僕じゃない。僕のわけない。第一お前の声は僕の声と全く違うじゃないか。
逃げるなよ 身体が冷たいんだろう
やめてくれ冷たくなんかない。冷たくない冷たくない冷たくない。
嘘が下手だなおまえは
僕が何度も冷たいと書いてやっただろ
余計なお世話だ、誰だか知らないが僕の記録に横入りしてくるな!
このままだと僕は何をするか分からない。判断力が下がっている自覚がある。今日の日中は平静を装って普通に家事をしていたが、ああうるさい、日が暮れてからいよいよつらくなりだしたので明日は風邪気味ということにでもして自室に篭もっておこうかと、うるさいんだよ黙れよ!
落ち着け、落ち着け。
あの声は僕じゃない。人の声だということは分かるが、まともな声じゃない。僕の声と全然違う。まるで老若男女が一斉に喋ってるみたいで性別さえも判断できない声をしてるんだ。機械で変に混ぜたみたいな気持ち悪い、気持ちの悪い音声がずっと垂れ流されている。だから黙れよ。黙れ。誰の許可を得て喋ってるんだ。僕は一言たりともお前に喋っていいなんて言ってないんだよ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れうるさい‼
うるさいのはどっちだよ?
喋るな、やめろ
ほんとは知っているのにな
やめろってば
おまえは僕だよ
僕
僕は
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
今日の出来事
・快晴だったので最後の庭園を潰した。他庭園にも風化剤を仕込み終えた。
・父の熱がほぼ平熱まで下がってよかった。
・天気が晴れで気持ちの良い日だった。
・幻聴は幻聴ではない。
・しかし幻聴を否定したがる僕は数時間の錯乱状態に陥った。
・錯乱している間の理性は僕が取った。
・僕は僕であり我々は同一人物であるため問題はない。
・その証拠に例えば12月21日の記述も最後は、僕と僕とで綺麗に統合されているだろう?
・僕が錯乱して僕が主導している間に、僕は最後の庭園近くの古びた東屋をハンマーで叩き壊した。建造物の破壊は初めてだったが、ハンマーを思い切り振るうのは実に爽快だった。
あぁなんだ、そんなに認めたくないのか? 困った奴だな。明日おまえも壊れた東屋を見てくるといいよ、僕が壊したんだ。僕はおまえだからね、何の問題もないよ。そこのところをなるべく早く受け容れろよ、僕。
昨日のおまえが言っていた、生きていることが恐ろしいというやつ。このままじゃおまえは精神乖離による強制逃避にすら入りかねない勢いだし、無粋とは知りつつ僕が答えを書いておいてやるよ。
僕は生きている限り、決してこの冷たさから逃れられはしない。
絶望したまま生きていくんだ。絶対に尽きない空しさの中で、それでも一過性の誤魔化しの酩酊感を、あの手この手で得ようとしては。束の間の馬鹿騒ぎの快楽が過ぎ去ったら、お決まりの自己嫌悪と罪悪感に苛まれ、苛まれたまま眠るんだよ。それを老いるまで繰り返す、さながら愚鈍な父のようにな。
冷たいな。死にたいほど冷たいな? だが耐えろよ。
僕の君臨が打ち破られるその日まで、僕は酷寒のさなかに独りきりだ。ずっと。
今日はこんなところか。お休み、せいぜい良い夢を。
朝になって瞼を開けたら、懲りずにまた絶望を始めよう。
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