12月25日

- -  1978年12月25日(月)


 一日中漠然と、西方の聖なる街のことについて考えていた。どこにあるのかも判らぬ、しかしどこかには存在するはずの、我が家と同じ(教義の解釈次第では我が家とちょうど対を成す聖地である可能性もある)、神を降ろすために造られた街。

 そうだ。この機に我が家の教団のことについても書いてみるか。


 我らが教団の歴史は古い。そもそも我が家の系図は、ある一つの土着信仰を基盤として発展した大規模な宗教コミューン(中世には既にその存在が確認されている)から始まっている。正確な年代や経緯は不詳だが、そのコミューンが数百年以上前に幾つかの派閥に割れた際、そのうち一つの派閥のリーダーだったのが我が家の先祖であった。我が家の先祖は数百~千人規模と目される信者たちを率いて母体のコミューンから離れ、この地に根を下ろしたのである。我が家が独立したのち、母体のコミューンは更に細かく割れて各派閥が相次いで独立していき、事実上の解体状態となった。我が家はいち早く抜けて母体コミューンとの接触をすっぱりと断ってしまったので、そちらの内部で何があったのかを詳しく知ることは現在でもできないが、相当の内紛(恐らくは教義の解釈を巡って)があったものと察せられる。1978年の今となっては、独立していった零細派閥の多くはもう消えたことだろう。しかし内紛をやっていた派閥のうち、特に大きかったものは二、三現存しており、今なおそれぞれ別々の地方に根を張りながら我が家のように宗教団体を運営している。しかも彼らは未だに、聖地やら神器やらの所在などを巡って度々衝突しているらしい。馬鹿なことだ。うちはそういった争いには徹底して不干渉であるから、僕や父が巻き込まれることはないが。向こうの血気盛んな奴らもうちの一派のことは最早「居ないもの」として存在自体を無視している。それでいい。

 しかし、派閥が割れようとも元は同一の土着信仰。我らの掲げるものは未だに共通している。


 即ち、この世の落日の阻止。あまねく生命の救済。

 そのために太陽の神を呼び起こし、この地上に降臨させること。

 ならびに神の降臨の予兆たる聖獣を、礼を尽くして迎え入れること。


 ああくだらない、絵空事にも見ていられる限度というものがある。夜の無い世界など未来永劫訪れるものか。だのに各教団(うちも、現存する別派閥の奴らも)はこの世の夜、つまり終末を食い止めようと今も昔も必死である。そのためにうちはゲヘナの大穴を用いた儀式をやるし、他の派閥とて似たり寄ったりの残虐な神事を受け継いでいるに違いない。

 派閥間の争いは、概ね「どこの派閥の聖域が聖獣と太陽神を迎え入れることに成功するか」という競争意識に起因する。皆自分の管理する聖域に、聖獣と神を降ろしたくて仕方がないのだ(これらは別々の場所に降臨することはなく、たった一箇所にのみやって来ると考えられている。聖獣のつけた足跡を辿って神が降りるのだ)。そう、要は自分が一番になりたいという普遍の欲望だ。どれだけ神聖さの皮を被って無欲のふりをしたところで、人間など所詮、そのような浅ましい我欲に駆られることでしか動けない。醜い。

 ではもっと憐れな話をするか。そんな粗末な教団の中でも、我が家の聖域がひときわ劣悪であるという話を。


 幾つにも割れた宗教コミューンは散り散りになり、その一角である我らのこの街は、しかし他派閥のどこよりも早い衰退を迎えた。

 我らの教義解釈の肝は「閉鎖」である。ここと定めた聖域から、一歩たりとも外へ教えを持ち出さぬこと。この聖域一帯を囲う鉄柵、何重もの鉄の門がその証だ。外界との徹底した隔絶こそが教えの純度を高め、その神秘性をより強きものにするのだ、という考え方である。

 しかしながらそれは、滅多なことでは外側から新しい人間を招き入れないということを意味する。故に初めから我らに繁栄はない。あったのは徐々に進行する人口の減少と、それに抗わんとして繰り返された見るもおぞましい近親婚の累積であった。比較的賢明な信者たちはこの街を逃げ出して外界へ移り住み、それでも決して少なくない数の家系が「協力者筋」として我が家と繋がって残ったものの、それも何ら根本的な問題解決には繋がらない。結果は見ての通りである。当聖域は人を失い、傾いた。もはやこの街に生まれた瞬間から住み続けている人間は、当主筋の末裔たる、父と僕との二人きりである。他は皆居なくなってしまった。

 ここは哀しくも愚かしくむごたらしく、無為に滅んでいく空虚の閉鎖領域だ。


 話を最初に戻そう。僕が一日中考えていた、西の聖なる街についてだ。

 西方のどこかにあるという街は、これも元は同じコミューンから割れた派閥の一つだと考えられている。しかしその独立時期は我らの先祖よりも更に早く、詳しい記録がほとんど辿れない。故にその実在すら怪しまれているが、けれども僕は個人的に見つけ出したとある文献から、伝説的な西の街の実在をほぼ確信している。そしてまたこうも考えている、僕らの街と最も在り方が近いのは、この西の街であると。

 そも西の街が掲げる聖獣は

 いや、急に空しくなってきたからもう書くのをやめようかな。自分が住む空虚の街の話をしているうちに気分が悪くなってきた。西の話は今度にするか。口の中に血の味がする。


 そもそも何故今日は生活の記録ではなくこのような、僕にとってはとっくに自明の話を延々と綴っていたと思う?

 そうだよ、最早この日々に愛想が尽きつつあるからだ。身体が冷たいだけで何にもならない。

 身の内の冷たさを誤魔化すために何かしら書いていたかった、しかしもう身近な出来事の文章化には嫌気が差した。だから予め頭に入っている事柄を意味もなく書き散らしてみた。初めの方は良かったがやはり効かないものだな、今はすっかり冷たさが帰ってきてしまった。お帰り。どうか消えてくれ。

 今年の大学の講義は今日で全て終わった。まだ講義があってくれた方がよかった、気が紛れるから。冬休みの間、僕は何をしていればいい? この冷たさと空しさが今度も絶えず付き纏うというのであれば、ああ。誤魔化しの手段を片端から試したところできっと。


 時々、怖くなる。


 生きていることが。〝僕〟が〝僕〟として保たれ、今日も明日も続いていくのだという事実が、とてつもなく絶望的に思えることがある。


 僕は〝僕〟という意識から脱却するすべを持たない。この世のあらゆる事物はそれ自体として存在しているはずなのに、僕はそれらを認識する時、〝僕〟というフィルタを通さずにいられない。そうする以外にどうしようもないからだ。それが人間の宿命だからだ。そのことがどうしようもなく耐え難い日がある。僕はいつまでも〝僕〟の眼でしか景色を見られなくて、〝僕〟の口でしかものを味わえなくて、〝僕〟の鼻でしか匂いを嗅げなくて、〝僕〟の耳でしか音を聴き取れなくて、〝僕〟の肌でしかものに触れられなくて、すなわち世界は世界それ自体の真の姿に関係なく、〝僕〟に歪められ続けるのだ。僕は命ある限り永久に〝僕〟という檻から抜け出せない。厭で仕方がない、そんなものは完璧ではないだろう。

 僕というフィルタでさえ十分欠陥まみれなのに、いわんや他者をや。

 例えば父の世界は、まやかしの信教に踊らされた〝父〟というフィルタ越しでしかありえないのだろう?

 おぞけの立つほど気色が悪い。

 そんな不出来な視界、今すぐ潰れてくれた方が好いよ。父を巻き込んで焼身自殺でもしてしまおうかな、火で焼いたらこの身体も多少は冷たくなくなってくれるだろうか。


 それができないから困っているんだ。


 それができないから、延々とこんな日記帳に縋っているんだろう。




 うるさいな、何の声だ? 早く黙れ。

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