12月24日

- -  1978年12月24日(日)


    冷たい


 取り憑かれたかのように、庭園を三つ潰した。これで所有域内の庭園のほとんどは息の根を止めたことになる。既に潰してあった庭園には風化を速める薬剤を撒いてきた。これは庭園潰しを始めた当初からすれば喜ばしい進捗であるはずだが、喜ぶ気が失せている。


    冷たい


 体の内側が非常に冷えている。気を紛らわそうと他のことをしても、冷たさを誤魔化すことがなかなかできないでいる。何故こんなにも空しいのだろうか。己の内の虚無感に対し、怒りに似た不快な感情が湧いてくる。まるではらわたの底で、大きな百足が絶えずうごめいているかのようだ。落ち着いているのに落ち着かない。動いていても動きたくない。数々の矛盾が僕の内に現れる。だがそれらは、決して外側に出ることを許されず(誰に許されないかと言えば僕自身にだ)、あくまで僕の内側でのみ浮上し、渦巻き、衝突し、そして泡と消える。決して外側に顕れることなく自己完結する。僕だけが僕を視る。誰ひとり僕の混乱と矛盾を見て取らない。見通せる者は僕を除いてどこにも居ない。支配と君臨とは、それ即ち孤独を指すのであろうか。

 ああ、仮想の百足が僕の内臓を掻き回している。仮想のくせに質量がある。のたくる虫の硬い躰、鋼のような無数の足はひどく冷たい。吐き気がする。中身の入っていない胃袋に空しさだけが詰まっている。


    冷たい


 庭園を潰した。吐けないのに吐きたかったから、僕は庭を黒く殺したのである。時代錯誤の庭園に対し、消失を求めたのである。消えることを望んだのである。不在の神に向けた因習など、僕が統べる閉鎖領域には、僕という閉鎖領域には必要ないのだ。


    冷たい 邪魔だ

    冷たい


 父は昨日と同じような状態で、熱の高さも概ね昨日のまま、今日も日がなベッドに居た。急遽我が家に住み込むことになった世話役の女は離れの整備に手を取られており、今日はこちらを手伝える状態ではなかった。だから家事は僕が回した。父の枕元に座り、僕はだいぶ長いこと彼の寝顔を眺めていた。盲目になりかけの老人。脚が折れて一人ではまともに歩けもしない、僕の老父。

 彼に歩行能力を喪失してほしい。

 と、考えていた。あなたに歩き回られたくないから。あなたにこの家の所有域が変わり果てたことを知られると面倒だから、僕の手間を省くために歩けなくなってほしい。介護の人手が僕一人ならばいざ知らず、ちょうど常駐してくれる世話役も見つかったことだし、これを機にいっそ車椅子にでもなってくれないか、と。他者に車椅子を押されない限りどこへも行けない体、それならばきっと、今度こそ完璧に、僕はあなたを操れるからだ。


 この家にある儀式用の薬剤をまた持ち出して、部屋に麻酔の煙を焚き、一時的に痛覚を失わせた父の脚の骨を金槌なり何なりでもっとひどく砕く。二度と治らぬように。

 どうしてだろう。手順は分かっていたのにできなかった。


    冷たい


 少し、要らないことを書きたい。


    どうして僕は記録を止めない


 今夜はもうすべきこともないし、つらつらと書いてみようか。


    止めろ 冷たいのに


 母のことだ。母は元から病気がちな人であったらしいが、父と結婚してから四年後に僕を授かり、産み落とし、そして所謂「産後の肥立ちが悪い」という状態に陥ったのだという。彼女は僕が一歳になるまでは永らえたものの、家族で僕の一歳の誕生会を開いた数日後に昏睡状態となり、間もなく亡くなった。母のことを大層愛していた父は彼女を手厚く弔い、母の忘れ形見である僕を抱え、たった一人の息子である僕と共にこの聖域で生きていく決心をしたのだそうだ。彼は今に至るまで一貫して再婚の意志は見せていない。

 母の写真は、アルバムにそれなりの数が残っている。それらを見ても僕には、よく知らない女性が写っているなとしか感じられないのだが、しかし素直に美しい女性であるとは思う。どの写真でもとても優しい表情をしている。おまえの母さんは優しく聡明な女性だった、と父は事あるごとにそれは愛おしそうに母のことを語るが、確かにそのような雰囲気は色褪せた写真を通しても窺える。それに、彼女の面影はきちんと僕に受け継がれている。例えば僕の鼻筋や唇の形などは、完全に母譲りである。写真の中にしか居ないあの女性が、僕にとって決して赤の他人ではないことの裏付け、それが僕自身の存在だ。

 時折思う。生きていた頃の彼女に会ってみたかった。

    やめろ

 会って話をし、声を聞いてみたいと思う。彼女はどのような眼差しで、どのように呼吸をしながら言葉を紡ぐ人であったのか。

    やめろ

 彼女は今や遺骨と成り果て、その温もりに触れることは二度と叶わないから。カルシウムとタンパク質の塊だけを地中に遺している母。母の墓標の近くを通るたび僕は繰り返し問う。その物質は本当に僕の母親なのか?

    冷たい  もう

    やめろ

 何をすれば僕と母とは〝親子〟であれるのだろう? やはり僕がこの閉鎖域の全てを殺し尽くしたその後に、僕自身もカルシウムとタンパク質の塊となって母の隣の土へ還ってみれば、その時こそ僕と母は、臍の緒と胎盤で繋がっていたあの時以来に繋がることができるのだろうか。いや、骨になった僕とは本当に僕なのだろうか。骨と骨とが地中に在って触れ合ったとて、それは親子の邂逅ではなく、物質と物質の接触にすぎぬのではないか?

    やめろ

    やめろやめろやめろやめろやめろ


 古びた写真の中のあの女性ならば、僕の孤独を解って


    厭だ

    冷たい


 解って


    もういい黙れ

    仮想の百足 もういい黙れ



 父を

 父を殺せないのだ、僕は。

 ころせない。本当は殺してしまいたいほど父のことを疎ましく思っているはずなのに、重荷を切り捨てることがどうしてかできなかった。麻酔の煙を焚いて、脚の骨も肋骨もその内側にある肺も心臓も滅茶苦茶に叩いて、潰して、嬲って、嬲ったら僕は解放されたはずなのに。今日できたはずだ、今日できたはずなのだ僕には。殺せばよかった。殺せなかった。何故? あの人は憎まれてもしょうがないことを僕にしてきたじゃないか。七歳の僕を儀式で怖い目に遭わせたじゃないか。血を浴びせて、赤ばかり僕に押し付けて。母だって教団の下部構成員の家からほとんど強制的に娶った女性だろう。きっと見目が良いからって。控えめで従順そうな女性だからって。それを愛していたなんて綺麗事だ。父は、あの男はどこまでも悪気なんかなくて、慈愛の顔つきだけをしながら、その大層な慈愛とやらでもって幾つも幾つも幾つも周囲に怨嗟と悲嘆と憎しみを振り撒いてきた。長年ずっと。そういう風にしか生きられない人なんだ。あんな善意の化け物死なせてやるべきなんだ。あなたが愛だの優しさだのって称して撒き散らした怨嗟と、悲嘆と、憎しみと、全部ぜんぶ次代の僕にたらい回しで押し付けられるじゃないか。ふざけるなよ、僕を見ろよ。一人息子が大事なんじゃなかったのか、守るって誓いはどこに行った? 父の悲鳴が何より聞きたいはずなのに聞きたくない。耳を塞ぎたい、もう名前を呼ばれたくない。それなのにまだ父の何かに縋っていたい。名前を、名前を、

僕の名前を呼ばないでくれ

まるで僕もあなたも、信教のためだけに生まれてきたみたいだ。そうだろ、脈々とつづくこの教団のためだけにその都度憐れな女性の胎を使って、僕ら当主筋はずっとずっと可哀想な女達が生まされてきたんだろう、まるで僕らの血脈それ自体が呪いのような、

あなたから一文字貰って付けられた僕の名前を、

あなたとよく似た僕の名前を、

お願いだから呼ばないでくれよ!


    冷たい



 父を殺せなかったんだ。

 だから僕ごとぜんぶ、喰い殺してくれ。

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