12月23日
- - 1978年12月23日(土)
特に言及もせず流していたが、今年の冬至は昨日であった。一年で最も永い暗闇が地表を覆う日、最も永く夜が降りる日。
その最長の晩の中で、一人の男が死んだ。世話役の女がやり遂げた。いやめでたい。虫けらの分際で我が家に出入りしていた醜悪な生命が一匹、消えた。さようなら、輪廻転生しようが二度と僕の視界には現れないでほしい。
昨夜、日記を書くのを止めた後である。僕が客間へ様子を窺いに行くまでもなく、思い詰めた顔の女がやって来て「お酒を頂けませんでしょうか」と言った。どうも弟の方が寝酒がないと不機嫌になるたちらしく(歪んだ性的嗜好の上にアルコール中毒まで併発していたわけだ)、それで喧嘩になりかけていたらしい。僕は台所の奥から一番香りの強い酒を選んで渡してやり、「この酒なら何かが混ざっても気付かれないだろう。混ぜる量には容赦するな」と懇切丁寧にお膳立てをしてやった。我ながら親切が過ぎるとも思ったが、まあ夕食の後に嫌な光景を見せられてからというもの、僕も俄然あの男に死んでほしくなっていたのだ。女はやはり光明を見る目で僕を見上げていた。
僕は自室に戻り、多少大学の予習などしていたが、二十分ほどでまた客間の方が騒がしくなった。今度は先程とは言いようもなく違う、異様な雰囲気が感じ取れたので、来たかと思って客間の扉の前まで行ってみると中から女の「助けて」という消え入りそうな悲鳴が聞こえた。僕は扉を開けた。
客間の床に男が倒れ、目を剥いて痙攣しながら必死で女に手を伸ばしていた。女は部屋の隅まで後ずさって震え、男は口の端から唾液と血液と吐瀉物が混ざった泡をカーペットにこぼしており、客間の電球は長年使っていなかったのでちかちかと不規則に瞬き、それら一つ一つの要素が組み合わさってあまりにも醜い光景を生み出していたから、僕は嫌気が差して、扉を閉め、ゆっくりと歩いて。
男の頭を踏み付けた。顔面をカーペットに強く押し付けるようにして。自分が塵芥を見るような目で男を見下ろし、その動作をやっているのが分かった。男は悶え、数分で窒息に至り、やがてびくびくと陸に打ち上がった魚のように体を大きく数度跳ねさせ、動かなくなった。
僕は無言だった。女は啜り泣いていた。下等生物の泣き声はどこまでも耳障りだった。
死体は夜のうちに台車に載せて運び出し、ゲヘナに打ち捨てた。女が終始泣いておりあまり役に立たなかったので、作業の六割方は僕がやったようなものだった。作業が終了したのは午前二時頃であった。この寒い冬至の真夜中に他人の尻拭いに奔走させられたこちらの身にもなってみろ、と思ったので、女には「高くつくぞ」と一言囁いて客間に追い返した。
夜が明け、僕も女も普段と変わらぬ習慣に則って生活を再開した。父の熱は少しは下がったものの、まだ三十七度台半ばを下回らなかったので、彼は一日中ベッドに居た。僕にとっては彼が身動きを取らないでくれる方が気が休まるので幸いだった。父は熱でぼんやりとしながらも、今日は世話役の男の方は居ないのかと不思議そうに尋ねてきた。僕は「彼のご実家の方で手伝いが必要な問題が起きたそうだから、今日からこの家に働きに来てくれるのはお姉さんの方だけになります」と当たり障りのない嘘を吐いた。父は自分も熱で大変だというのに、それは災難だ、とまた他人のために心を痛めていた。
僕がその嘘を述べている時、後ろで女が、拭いていたスプーンを取り落としていた。
夕方、また庭園を潰そうかと考えていたのに雨が降った。邪魔をされたようで煩わしかった。
夜、夕食を作り終えて帰ろうとしていた女を引き留めた。彼女も弟も実家住まいであることは既に知っていたから、弟を殺したその身で実家の両親の元へ帰れるのか、弟の不在をどのように誤魔化すつもりだ、と訊ねてみると女は絶望的な顔で立ち尽くした。僕はまた一つ、操り人形が僕の掌の上で思い通りに動く予感を捉えた。
女を確実にこちらの思惑通りにするために、僕は彼女を自室へ呼んで二人きりの状況を作った。
茶を淹れて向かい合い、まず彼女の昨夜の殺人を褒め称えてやった。よく決心して頑張ったものだ、あなたは勇気ある女性だ、などと心にもない言葉を、最も彼女に響くであろう声の使い方と表情で延々と。賞賛した次には、それでもやはり怖かったろう、今まで独りで抱え込んで大変だったろう、と彼女の暗い感情を刺激しては認めて慰めるようなことを、もっと時間をかけて延々と。こうなれば最早、僕は彼女の光明どころではない。
女はやがて完全に、救いの神を見る目で僕を見始めた。そう、神なのだ。そんなものはこの世に不在だというのに、蒙昧な女が僕のうちにそれを見出す。憐れだな、その僕は嘘なのに。
このままこの家に住み込んでしまえ、と僕は持ち掛けた。
家事全般を引き受けてくれるなら生活費はこちらで丸抱えしてやる。住居には離れの建物を貸してやれる。実家から何を言ってきても、所詮は当教団の下部構成員の血筋、うちの本家としての権力でおまえのことは何とでも守ってやる。己の意志でこの家に忠誠を誓うならば、おまえの罪は永久に露見させない。
そういう事を滔々と言って聞かせるうちに、不思議なものだ、僕と向かい合わせだったはずの女はいつの間にか僕の前で床にひざまずいていて、僕は椅子で悠々と足を組んで彼女を見下ろしていた。自然とそのような構図が出来上がり、僕は上記のような言葉をゆったりと述べながら、女の口内に指を突っ込んでいた。
人間の口の中は温かい。唇を端から端まで人差し指と中指でなぞってやり、驚きと呼吸のために薄く口が開いたところで中に指を滑り込ませてやるのだ。嘔吐反射を起こさないよう、舌は押さえてはいけない。唇の裏側と、歯茎を経由し、歯の一本一本から頬の内側まで弱い力で触って、それから上顎をよくよく撫でてやる。喋りながらこれをしばらく繰り返していると、そのうち向こうの目つきが変わってくる。頃合いを見計らって舐めてもいい、と許可してやる。向こうから指に舌を絡ませてきたらそれで陥落である。
肝要なのはこの時、右手以外は決して使わないことだ。しもべ風情に僕の身体の他の部位を知る権利などない。右手の指の味だけで身に余る光栄として満足していればいいのである。それ以外の接触を許せば主従の力関係が崩れる。
手が粘ついた唾液まみれになって気持ちが悪いことこの上なかった。
女は僕が提示した条件を全て呑んだ。離れの整備は明日以降というとにし、数日は彼女を客間に泊まらせることにした。細部の事情をもう少し整えた作り話にした上で、父にも彼女が住み込むことになったと知らせなければ。
能面の表情はもうどこかへ行ったようだ。愛撫すれば欲情した顔をして、汚らしいだけの生き物に成り下がっていた。
とはいえ、今後とも雑事を任せられる人間ができて僕も助かる。
こんなところでいいだろうか、今日は。
もういいか。
どうして記録することがやめられないのだろう
この街に降りるかもしれない聖獣よ
今日も来てくれなかったのですね
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