12月22日
- - 1978年12月22日(金)
今日は、 今日は大丈夫だ。落ち着いて書く。書ける。僕にはできる。
今日は実に珍しいことをしてしまった。大学を休んだのだ。僕が学校を休むことは昔から一年に一、二度、あるかないかという稀な出来事である。体調が優れなかった、と、いうわけでもない。確かに昨日から胸の辺りや頭の奥が冷たくて冷たくてたまらないが、それは現実の疾患ではなく、心因性の錯覚であると僕は自覚している。だが理解していてなお、冷たさは止むことも弱まることもなく続き、僕の気力を奪っていった。いや、実は気力はある意味で満ちているのか? しかし、 ああ駄目だこれでは、書けると思っていた文章が乱れている。そうだな、明確な病気は一つもないものの、こんな乱文を書いてしまう程度に僕は本調子ではないということだ。
そしてもう一つ、大学を欠席しようと僕に決めさせた出来事があった。父が倒れたのだ。朝、なかなか起きてこないと思ったら高熱を出していた。父の額を触った瞬間に外出する気が完全に失せた。乾いて不必要に熱い、老爺の肌の感触がした。水分がないくせに奇妙に生々しかった。
医者を呼んだ。医者は父を診て「風邪を拗らせたのだろう」と診断し、悪化させると肺炎になりかねないから気を付けるようにと言って薬を置いて行った。そういえば父と冷戦をしていた間、僕は彼の体調についてろくに気を配っていなかった。だからそもそも、彼がここのところ風邪を引いていたことを知らなかった。この日記をつけ始めた頃の僕は、父が少しでもだるそうにしていたらすぐ生姜湯など作ったと書いていた記憶があるが、どうも僕は僅かな時の間にいよいよ変質したらしい。
以前の僕が今の僕を見たら、不孝者め、と言って責めたろうな。
今の僕は以前の僕にこう言ってやりたい。違うよ、そうではないよ、と。早く目を醒ませ、おまえが操り人形に操られてしまってどうするんだ。おまえは舞台の上よりも更に上に立って、父の病身も母の遺骨も掌に収めて飼ってやればいいんだよ。
僕は他者と同じ場にあるように見えながら他者と絶対的に隔絶され、故にこの呼吸は、冷たいことこそが正常なのだろう。早くこの冷たさに慣れるよりほかはない、これが本来僕が生きるべき道だったのだろうから。冷たい。呼吸は誰とも共有され得ず、零度を保つ。
空しいことだな。本当に。
昨夜書いたものを読み返すことができない。何を書いたかはしっかりと憶えている。だが、目で見て文字として再認識するのが嫌なのだ。僕は僕でありながら僕自身の思考の断片を避けている。何故だろう?
この気持ちさえも実は僕自身が僕に用意した舞台演出の一環、か?
僕は出勤してきた世話役二名に父の世話をほとんど丸投げし、惰性のみで少しの家事をしながらぼんやりと日中を過ごしていた。何もする気が起きず、窓の外が薄曇りであったので空ばかり見つめていた。白い曇天。白色はそうだ、まだ元気だった頃の父の祭礼装束の色だった。あの白色の生地に、ゲヘナに落とされゆく犠牲者たちの血液が飛び散ったなら、さぞかし目立ったことだろう。それでも白を着ていた父は、そもそも血液を浴びる心配などしなくともよかったのだろう。何故なら彼こそが儀式場における最高位神職者だったから。彼は後ろの安全な物見やぐらに立ち、遠くから犠牲者たちを見下ろしているだけでよかった。実際に穴の縁で暴れる犠牲者たちを押さえつけ、その血や体液を浴びながら彼らを奈落へと突き落とす最も苛酷な作業をやっていたのは、それこそあの世話役の姉弟の血筋の者らではなかろうか。恐らくそうである。あの能面の姉弟の両親などは、現役だった父の下でそういうことをやらされていたはずだ。
まだ視力のあった父はそれを物見やぐらから眺め、優しいあの人のことだから信心の涙など流していたのだろう。
気色が悪い。そういうものばかり視ていたから視力を取られたんじゃないのか? あなたが信仰する神だか何だかに。
父の熱が一向に下がらないので、日暮れ頃に僕から世話役の二人に「報酬は相応に増額するので、今日は我が家にこのまま泊まり込んでくれないだろうか」と頼んだ。二人はすぐに呑んだ。僕は特に女の方へ目配せをしておいた。つまり、弟を毒殺するなら今だぞと。この家で一晩を明かすという不慣れな状況下では弟の方も何かと調子が狂おうし、家主である父は朦朧として寝込んでいるから、多少の荒事があっても気付かない。あとは協力者である僕しか居ない、これほど出来た状況が他にあろうか。
これを書いている今現在、時刻は二十二時過ぎである。恐らく今夜中にこの家の中で、一人の男が絶命することだろう。そうなれば僕は死体処理などに動かねばならないので、そろそろ筆を置きたいところではあるが。
ともかくそのような経緯で泊まり込むことになった世話役たちと夕食を共にしたのだが、食後、彼ら二人が台所で後片付けをしているところをふと覗くと、何とも下卑た光景を目にしてしまった。
弟の方が、使用済みの食器を扱ったその汚れた手で姉の身体を執拗に触っていた。姉相手に長年性的虐待をはたらいてきたというのは本当だったわけだ。僕は止めるでなく、戸口にもたれ掛かってしばらくその様子を眺めていた。汚らわしい、という軽蔑の感情以外は生まれなかった。やがて二人は黙って見ている僕の存在に気付き、二人揃って世界でも終わったかのような顔をした。顔立ちに差異はあれどその表情が本当にそっくりであったから、腹違いとはいえ姉弟なのだなと確かめさせられた。非常に不愉快であった。
「すべきことをしてください」とだけ言っておいた。
汚い行為に走る前にまず食器を洗えという意味と、その男の形をした虫けらを殺すならさっさと殺せという意味とを込めて。
ああ、馬鹿どもが。僕に見られてあんなに青くなるくらいなら、雇い主の家で不埒なことなどしなければいいのに。
先程から客間で何か声がしているようだ。父は一時間前に寝かしつけたから、父ではなかろう。となると、そろそろ人が死ぬか。
ならばここで切り上げよう。
耐えろ 僕はこの冷たさにさえ順応して立たねばならない
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