12月21日

- -  1978年12月21日(木)


    冷たい

    冷たい

    冷たい

    解ってくれ

    僕はここに居るのだ



 徹底的に閉鎖された聖なる街、というものは。

 我が家以外にも存在している、と、いつか父から聞いたことがあった。とはいえその具体的な場所や、信仰の内情までは窺い知れないのだとか。この家と同じく最高位の宗教機関として、情報は厳重に秘匿されているらしい。けれども、恐らくここよりずっと西方の地に、ここと同じように神を迎え入れるための器としての街が在って、ここと同じように来たる落日に備えているのだとか。

 もしも世界の命運が決まる審判の日が訪れたら、その際には合図として、僕達の街かその西方の街のどちらかに聖獣が降りるのだとか。だから僕達はそれを信じて待ち、その時まで聖域を守り続ける、それこそが聖域の管理者の血族が代々背負う使命なのだ、と。

 幼い日に父が語り聞かせてくれた、そのようなくだらぬ教義。取るに足らぬ絵空事。お父さん、あなたは騙されている。洗脳だ。あなたは事実無根の作り話に踊らされて人生を奪われたのだ。現状を見るがいい、何が聖なる使命だ。落日を止めて僕達を一挙に救済してくれる神など、この世に実在するわけがないではないか。そんなものが実在していたなら、僕達は今ごろこんな風にはなっていなかったはずだろう。


 いっそ父の話が本当であれば良かったのに。聖獣が降りてそして、聖なる牙を備えたその口で愚かなる人間を聖域ごと貪り食ってくれればそれが良かった。汚いものは何もかも、美しい獣の腹に呑まれて消えてしまえば、どんなにかこの世界は合理的で無垢だっただろう。




    僕は解ったのだ  理解をした


 今日の朝、世話役がやって来るよりも前、父と僕は和解した。根比べの冷戦に先に音を上げたのはやはり父の方だった。父は涙ながらに僕の手を取り、許しておくれと懇願してきた。おまえのような素晴らしい子がこの聖域に何か不届きなことをしようだなどと、そんなことを企んでいるはずがなかった、少し考えればすぐ分かるのに疑ってしまった父をどうかどうか許しておくれと彼は泣いていた。僕は勿論だと受け容れた。僕こそ不安にさせるような態度ばかり取って、冷たいことも言ってしまって申し訳なかった、僕の方こそ許してほしい、と述べて僕は父を抱き締めた。

 父が視えない眼球で必死に僕の手や身体や表情を捉えようと足掻いているのが見苦しかったのだ。こちらから抱き締めてしまえばその無様な動作を見ずに済んだから、そうした。それだけの理由で僕は彼に体温をくれてやった。父は物言わぬ能面どもに一日中遠巻きに監視され事務的に世話をされることに内心で疲れていたのだろう、僕のうわべだけの優しい声と体温で涙を流していた。それが単なる小手先の演技だとも気付かずに、一人だけありもしない幸福を再確認していたようだった。


    だからもう恐れるべきものなど何もないと思ったのだ

    僕は父を超えたから

    あの人は僕より下に 今度こそ成り下がったから


 父を落ち着かせ、久しぶりに和やかに談笑しながら朝食をとっていると世話役が訪れた。もしかすると今日は女一人かもしれないと思っていたが、女はまだ僕が与えた殺鼠剤を弟に盛ることはしていなかったようで、通常通り弟と二人組で出勤してきた。女がいかにも緊張した目で僕のことをじっと見ていたので、僕は紙切れに簡単な指示を書いて彼女にそっと渡した。

「急かさないが、やるなら当家の域内でやれ。事の次第は全て報告しろ。この紙はすぐに燃やせ」

 女は僕の指示書を読むと、僕が出掛ける直前にさり気なく玄関の方まで来て、縋るような顔をしてただ頷いて見せた。下僕の目をしていた。腹違いの弟への憎悪と殺意に囚われながらも、まだ殺人行為が怖くて踏ん切りがつかないという怯えに溢れ、そして僕という協力者への畏敬を確かに宿した目。暗闇の中に一筋の光を探り当てたかのような目で僕を見ていた。あの女は僕のしもべとなったのだ。


    物事が収まるべきところへ収まりだしたのだ

    僕には人を操り従える才能がある


 大学へ行くと、どうしたことか法学部棟に最も近い門が閉鎖されていた。門の近くに人が溜まってざわめいていたが、すぐに僕の姿を目ざとく見つけたあの女子学生が駆け寄ってきた。僕は背が高いから人込みでもすぐ分かるとか嬉しそうに言っていた。それは無視して彼女に、この状況はどういうことかと尋ねると、なんでも今朝早く、学内の過激な政治思想団体の一つが、法学部の教授に殺害予告を出して騒ぎになっているのだと言う。僕が到着した頃には、既に数名の武装した学生が警備員と乱闘するなどしていたようだ。そんないきさつを聞きつつしばらく門の前で漫然と(女子学生にこれ見よがしにくっつかれた状態で、またそれを周りにちらちらと好奇の目で見られながら)待っていると、程なく今日の講義は休講とするというお触れが出た。

 急に暇になってしまったと思ったら、僕にくっついていた小賢しい女が「それなら今日は二人で街に遊びに出よう」と誘ってきた。


    ようやく僕は正しい場所へ

    正しく 上へと登ることが出来よう


 誘いに乗った。夕暮れ時まで彼女と二人で繁華街をぶらついた。前に父への贈り物を買ったあのレコードショップへも彼女を連れて行った。あのヘルニア持ちの店主は僕のことをよく覚えており、そっちは君のいい人かいと冷やかされたので臆面もなく「そうですね」と答えておいた。僕が初めて口にした関係性の容認だった。それを聞いた彼女は面白いほど真っ赤になっており、面白いを通り越して不愉快だったが無論僕はそんな感想は一片たりとも出さず、そのままにしておいた。外堀を埋め返してやっただけである。いつの日かそれがお前自身への呪縛に変ずるとも知らないで、つくづくおめでたい頭の持ち主だ。

 日が落ちて暗くなるまで彼女と過ごし、確信した。彼女は勉学以外は無能だ。だから別れ際にこちらからキスをした。

 頭に血が上り過ぎて倒れるのではないかというくらいの過剰な反応をされた。唇一つで? キスの後、いつもと少し違う加減で目を細め口角を上げながら見つめてやったら涙目にすらなっていた。これは法学の分野ではないから知らなかったらしいな、表情などというものは、顔の筋肉のそれぞれの部位に適切な力を入れさえすれば如何様にでも造れるのだ。


    僕の 下 に人が増えていく

    世界はようやく

    僕に 君臨する機会を与えた


 家に帰ると、世話役の女はまだ弟を殺しあぐねていた。それはそれで構わない、急ぐ話ではないのだから。父が松葉杖をついてまでわざわざ僕を出迎えてくれた。彼は本当に僕という息子のことが好きであるらしい。しかし、もう松葉杖で動けるようになってしまったか、邪魔だな。あなたに歩き回られると面倒なのだが。杖を隠すか壊すかしてやろうか?


    それでももう心配はないのだ

    何故なら僕は 僕という人間は


    解ったのだ



 ああそうか、


 僕は愚かな者が、愚かなままで僕の掌に収まっているのを見るのが好きなんだ。出来の悪い他人を眺めるのは道端の吐瀉物を眺めるのと同じように不快だが、それでも僕は馬鹿が馬鹿であることに安心し、途方もない優越感を得ているのだ。自分が類い稀なる宝石であることを確認し続ける為には、比較対象として道端の吐瀉物が欠かせないのだ。だから僕は父の面倒を甲斐甲斐しく見て、あの女子学生に甘い恋の夢を見せ、世話役には一筋の光明を投げかけて、彼らをみんな僕の支配下に閉じ込めている。僕が優越感という名の酩酊に浸るために、彼らは僕の手許から解放されてはならないんだ。


 あれ? では何という奇遇だろう、


 まるで僕は、この閉鎖された街そのものじゃないか。


 そうか。僕自身が閉鎖街であって、僕の支配下にある彼らは閉鎖街の住人だ。彼らは僕の物、僕に所有される操り人形なんだ。僕は彼らがちまちまとうごめいている舞台を見上げるだけの観客、などではない。僕がそんな小さな存在であるものか。見上げるどころか僕は、彼らを見下ろしているのだ。僕こそが舞台の監督であり、また舞台そのものである。そうだ。初めからみんなそうだったんだ。亡母の遺骨さえも、僕という舞台の端に置き去りにされた小道具に過ぎなかったのだ。


 なるほど。そうか。そうか。


 なんて空しいんだ。


 だって。

 誰もここまで上がって来てはくれないのだ。下に居るだけで。

 誰も誰もひとりも、僕と同じ景色を隣で見てはくれないのだ。僕以外のみんなは僕に飼われて、幸せだの希望だのを、手前勝手に貪っているだけで。


 どうして人間は皆こんなにも、僕を含めて、愚かで。愚かで。愚かで。愚かで。僕も愚者で。どうしても愚かで仕様がなくて。それなのに。それなのに僕が誰よりも、厳然たる事実として優れていて、上に居る。みんな盲目だ。父だけじゃない。僕だけ眼が開いて、明いている。答えろよ、どうして僕に分かることがみんなには分からない?

 空しい。

 胸が冷たい。頭が冷たい。血液が冷たい。呼吸が冷たいのだ。

 みんな僕の掌の中でとろとろと無能な、しもべの夢を見ている。それは僕という閉鎖域の管理者である僕自身にとって、たしかな快感であるはずなのに、こんなにも体の中央が空しさだけで溢れている。気持ち良くない。


 誰か。

 僕と同じ視座を持ってくれる誰か。この舞台の演出に来てくれ。僕のようにこの閉じた盤面を見下ろしてくれ、頼むから。みんなこの世が操り人形であることを理解しようとしないんだ。操られている現状がいかに醜く不出来なことだか、自覚しようとしないんだ。

 誰でもいい。人じゃなくていい。聖獣よ、愚かな神話の通りにこの世に墜ちて、どうか全部喰ってはくれないか?


 いいや駄目だ!

 違う。神は不在なのだ。だからそのしもべである聖獣もまた不在なのだ。

 ならば僕がその不在を埋めるしかないじゃないか?


 君臨  を出来てしまった。僕は。

 聖獣の腹の中ではなく、僕の喰べる皿の中に、父をはじめとする人間が収まった。みんな喰い物。




 お父さん。脳味噌を刃物で滅多刺しにされるかのようなこの痛烈な孤独こそが、〝管理者に成る〟ということなんだね。

 そうだよね、お父さん?


 嘘だよ、

 あなたに訊いてもわからないよな。

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