12月20日

- -  1978年12月20日(水)


 気分が良い。いや、良くない可能性もある。今のこれはどちらなのだろうか。頭の奥が冷えており、故に意味のある温度がどこにもなく、だがしかし見通せるものが多いのだ。これはどちらだ、善い状態か、悪い状態か? いいやそれこそどうでもいい。世界に善も悪もない、確かなものは虚無だけだ。


 講義のない日なので家に居た。家で幾つかのことが起こった。僕はやはり無感動で、思考は飛躍しそうであり、そして途絶えぬひんやりとした高揚の中に身を置いて一日を過ごしていた。


 朝、僕は食事を終えると早々にまた父を世話役に託し、外へ出た。今日も例によって所有域の見回り及び処理をするつもりだったが、玄関を出る前に一言だけ父に「どこで何をする気なんだ」と訊かれた。父の声は冷戦用のぎこちないそれであったので、僕も調子を冷ややかな方へ合わせて「どこでもない場所で何でもないことをすると思います」と答えた。父は黙った。世話役の女が台所から、迷っているような怯んでいるような視線を僕に送っていた。僕は微笑んで彼女に頷き(意味のない頷きである。女の側は勝手に色々と気を揉んで解釈したのだろうが)、外に出た。


 午前中の明るさの中で改めて、風化した東側の庭園二つを観察してきた。見事なものだった。黒くザラザラとした粉末へと姿を変じた植物の遺骸が、忌まわしい雪のように積もっていた。事情を知らぬ他者にとっては不気味な光景であろうが、僕にとっては喩えようもなく素晴らしい眺めだとしか言えなかった。この忌まわしくも美しい黒の雪がいつの日にか、廃されるべき聖域中を埋め尽くして何もかもを窒息させてくれたのなら、どれだけ喜ばしいだろうか。その時この閉鎖街は、どれだけ正しさに溢れた静寂に包まれて潰えるだろうか。

 やはり終わらせたい、と思った。

 この馬鹿げた家を。父を擦り減らしてやまぬ、因習に塗れた神とやらの幻想を。ゲヘナにどれだけ死体を注いでも神はここへはやって来ないのだ。父は解っていない。僕が断ち切らなければならない。覚悟は今日、固まった。


 その後、拝殿近くの納屋へと向かった。例の庭園潰しの道具を隠しておいたのに、何故かたった一本きり水の瓶が外まで転がり出てしまった場所だ。そのことが父に要らぬ疑念を抱かせ、僕達親子の間に緊張を生んだきっかけとなったわけだが、僕はそれについてずっと考えていた。いくら扉の建て付けが悪いとはいえ、数ある道具の中から小さな瓶がたった一本だけ、二十メートル以上も離れた拝殿の道の真ん中まで転がるということがあるだろうか。直感的にだが、それは不自然に過ぎると感じていた。だからゆっくりと時間の取れる今日こそは、あの納屋の不自然の真相を探ってやると決めていたのだ。


 果たしてそれは、とても簡単な仕組みだった。

 納屋の中には鼠が巣食っていた。大きく肥え太ったドブネズミの家族だった。数匹のドブネズミが、僕の道具が入れてある革袋に潜り込み、薬剤や水の瓶や園芸用具を遊具にしてのうのうと戯れていた。

 つまりこの鼠どもがあの小瓶を遊びついでに外へと持ち出して、父に見つかる位置まで運んだ挙句に放置したのだ。全て合点がいった。

 腹が立った。

 ついでに12月5日の出来事も思い出した。あの日、鉄の門の下に巻き込まれて死んでいた無為な鼠。傷みかけの挽き肉の死骸。ゲヘナに落としたあれはこのドブネズミの家族の一匹だったわけか。


 では殺そうと思った。

 この何の役にも立たぬくせに、ちょろちょろと走り回っては僕の時間を浪費するだけの無価値な生物を。


 殺鼠剤を撒いた。納屋のみならず拝殿の周辺にまで隈なく。家にあるものを少しいじるだけで、殺鼠剤の調合は簡単にできた。庭園潰しの薬剤とは違って少し臭いが出てしまったが、今現在の父は骨折のために毎日の礼拝を欠かしている。彼の鋭い嗅覚にも気付かれることはない。好都合であった。これで二度と道具が荒らされることもなくなっただろう。あの無価値な鼠どもには、わざわざ手間を取らされて腹立たしいことこの上なかったが、これで一つ整理が付いた。

 殺鼠剤を撒くのを、また世話役の女が後ろで見ていた。何の用かと思えば、女は藪から棒に僕に頼み事をしてきた。

「昨日見たことを誰にも決して言わない代わりに、弟を殺してくださいませんか」と。

 弟というのはつまり、もう一人の世話役のことだ。女は僕の足元で泡を吹き痙攣する鼠を指さして、「弟もこんな風にできませんか」と尋ねてきた。少なからず興味を引かれた僕は、話を聞いてみることにした。蓋を開けてみればありふれた話だった。あの世話役の男は、腹違いの姉にあたる女に、長年にわたり性的虐待をはたらいてきたのだという。女は僕に強く食い下がってこのようなことを言った。

「このお家を潰そうというあなたにご協力いたします。昨日、協力の見返りには何でも私の好きなものをくださるとおっしゃいましたよね。何でもいたします。ですから弟を殺してくださいませんか」

 これには僕も、適当にあしらうことはできなかった。確かに僕はそのように約束した。それを違えるわけにはいかない。

 だから僕はこう訊いた。

 本当に何でもするか、と。

 女は頷いた。

 全て僕に従うか、僕の下に入ることを良しとするか、と。

 女は頷いた。僕はそれを以て話を呑んだ。


「ではこの殺鼠剤を分けてやる。これは人間も殺せる。

 ただし下手人は僕じゃない。おまえがやるんだ」


 そう、おまえがやるんだ。助けてやるから、手はおまえが下すのだ。僕の手は聖域を殺すので忙しい。どこの馬の骨とも知れぬ奴を僕が直々に殺してやると思ったら大間違いだ、そのような無為な血にこの手を汚している暇はない。

 女は了承した。僕は彼女に殺鼠剤を渡した。

 概ねそんな一日であった。



 人を脅す。僕に有利なように造られた交渉の席につかせる。そして殺鼠剤を渡す。これが僕という人間に向いているやり方である、そんな気がする。

 冷たく押さえる。人の上に立つ、そう、人の上に立つ。上に。僕は何かを掴みかけている。今、もう少しで何かを。


 僕という人間は何なのか、という問い、その解答。

 もう少し。あと僅か手を伸ばせばそこに答えがあると、本能が言っている。

 だから僕は高揚し続けているのだ。己の正しい形を見付ける、その道程のほとんど終端にあって。


 吐き気がする。

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