12月19日

- -  1978年12月19日(火)


 何から書こうか。僕は今少し混乱している。今日は何かと込み入った一日だったのだ。構成を考えるのも面倒だから頭から書こう。


 朝、世話役が出勤してくるのは七時であるから、ちょうど僕と父の朝食の最中に玄関の呼び鈴が鳴る。彼らは僕達の居る食卓には近付かず、「お早うございます」だけ小さく発声したら、あとは無言で父の寝室の整理などから仕事に取り掛かる。雇って三日目だが打ち解ける気配などは一向になかった。延々と沈んだ能面だった。彼らに世話をされているうちに父にまで能面が伝染したのか、彼は未だに言葉少なで僕との会話を避けていた。良く言えば温和、悪く言えば気の弱いあの人にしては、実に珍しいほど意地を張るものだ。15日の夜に僕と言い争って以来ずっとあの調子でいる。いいだろう、僕はあなたが折れるまで付き合ってやる。僕から折れることは決してない。今までこれほど長い親子喧嘩はしたことがなかったからあなたは知らないだろうが、残念ながら僕の方がこういった根比べでは遥かに強いのだ。僕は食卓の向かい側に気まずそうにしている父親が座っていても、涼しい顔を貫き通せる。


 父とはそのように冷戦状態で、能面たちにあとを託して家を出た。大学ではやはりあの女子学生に付き纏われた。こちらに関しては二日目にして早くも諦念が芽生えようとしている。あれこれと考えるのが面倒臭い。既に下世話な連中の間で僕と彼女のことが噂になっているようだが、今更火消しに手を回すのも馬鹿らしい。もう手遅れだろう。もし彼女が噂になることを見込んであのあからさまな態度で僕のそばをうろつき、周囲に見せつけることで外堀から埋めていこうとしているのであれば、まあそれはなかなか策士といえよう。非常に見苦しいやり方だが。しかし彼女の感情に気付けず対処が後手に回った僕の方が、今回は敗者である。負けは負けとして認めざるを得ない。

 外野の空気も鑑みるに、どうもしばらくは振れそうにない。遅くとも三日以内に周囲からは交際関係として認定されてしまうことだろう。彼女は晴れて僕に堂々と付き纏えるわけだ。良かったな、つけ慣れていない香水よりもその外堀の埋め方のほうがまだ賢いよ。色恋に目が眩んでも幾らかは知性が働いているようで安心した。仕方がないので敗けた僕は敗者らしく、しばらくは君と仲良しごっこをしてやるとしようか。家では父と冷戦ごっこをしているから、それで釣り合いが取れるというものかもしれない。

 自覚しているが今、僕は投げやりである。思考があり得ない速度で飛躍しようとするのを感じる。


 次に行こう。今日最も込み入っていたのはその後なのだ。

 今日は昼頃から雨が降った。そう、つまり潰した庭園が風化する絶好の機会が訪れたのである。大学に居る間に雨を確認した僕は、庭園に関してかなり浮ついた期待を胸に帰宅した。所有域に帰り着くと、家に入るより先に東側の庭園に向かった。

 結果は上々だった。第一の薬剤によって黒く枯らされ、第二の薬剤によって乾燥と脆弱化を促された庭の植物は、雨に打たれてぼろぼろと崩れて跡形もなくなっていた。庭から木々の姿は消え、代わりに墨汁をたっぷりと流したかのような黒い小川が、庭園外の地面まで溢れてきていた。黒い粉末状に変化した植物の死骸が、雨水に溶けて流れ出したのである。恐らくは薬効成分をたっぷりと溜め込んだ死の水が、庭園の外にまでだくだくと。僕はそれを目にして思わず笑ってしまった。これはいい、最高だ、うまくすればこの黒い水が周りの地面をも汚染して、所有域中の植物を一掃してくれるかもしれない、と。そうなったら僕の仕事は大幅に減る。植物が消えれば聖域の管理が桁外れに楽になるではないか。全て僕の狙い通り、いやむしろ狙いを超えた副次的効果すら生まれてしまった、と完全に悦に入っていた、しかしその時だった。

 いつの間にか背後に世話役の、女の方が立っていたのである。

 振り返った僕は心臓が止まるかと思った。

「その庭はどういうことですか」と女は訊いてきた。たまたま所有域東側の倉庫まで、父の要望で何か物を取りに来た彼女は、どこからか流れて来る黒い水を不審に思って水流を遡り、庭園へと辿り着いたらしかった。するとそこには僕という先客が居り、異様な死の庭園を眺めてひとり声を潜めて笑っていたというわけである。てっきり彼女は能面のような顔しかする気がないのかと思っていたが、実に怯えた表情で僕を見、「どういうことですか」と震えた声で尋ねてくるものだから、僕は驚いたのも束の間、すぐにまた笑ってしまった。


「魔法ですよ」と答えた。


 女の腕を掴んで地面に引き倒し、上から頭を押さえつけて、黒い水流にぎりぎり口が付く寸前のところで固定してやり、僕はこう言った。

 これは毒の水です。飲めば死に至る。今この場で毒の中に頭を突っ込まされたくないのであれば、ここで見たことを誰にも言うな。

 世話役の女は僕に頭を押さえつけられながら、それでも首の骨を酷使して必至で頷いていた。それがいよいよ糸の調子が狂った操り人形のような動作だったものだから、僕はまた笑ってしまった。


 女と共に家に帰った。世話役の男の方(彼女の腹違いの弟であるらしい)は、服を泥まみれにして戻ってきた女と、女ほどではないがある程度は汚れた僕の姿に僅かに驚いていたようだったが、彼女がぬかるみの中で転んだところに偶然僕が通りがかって彼女を助けて帰ってきたのだ、という作り話で納得させた。僕はその後こっそりと、彼女と二人きりで話す機会を作った。

 自室に彼女を呼び出し、僕はそこで我が家の「聖水」(とは名ばかりの劇薬)の瓶を見せてやった。この時僕は、今までに感じたことのない高揚の中にあって上機嫌であった。

 僕はこの馬鹿げた宗教の家を潰したいのです、と彼女に語りかけた。

 あなたもそうではありませんか。あなたの家系も大穴の残酷な儀式に関わらされてきたのでしょう? あれは僕も大嫌いです。ですから先ほどあなたが見たように、毒でもってこの聖域を壊しにかかっているのです。協力してくださいませんか。僕と口裏を合わせるだけでいいのです。見返りは何でもあなたの好きなものを、好きなだけ差し上げましょう。

 女は口を開けてわなわなと震えているだけだった。仕方がないので、「口外すればこの家にある毒で即座に殺す」とだけ伝えて部屋から追い出した。

 以上が今日の主な出来事である。



 ああ、


 おかしいのだ、今日の僕は。庭園前であの女の頭を押さえつけた時から。

 この家を潰したい、この家の儀式が大嫌いだ、と、初めて声にしてしまった瞬間から。


 この日記を書きながらも、まるで走馬灯のようにかつて赤色を押し付けてきた父の姿を思い出し、今の老いた父の顔を思い出し、僕を敗者にしたあの女子学生の分厚い眼鏡のレンズを思い出し、だがそれらさえ全て。

 もしかしたら、僕にはあの世話役に対して先程やったように、


 何もかも、圧倒的なまでの恐怖と力で押さえつけたら、僕の思い通りに解決してしまえるのではないか、と。

 僕は無感動であり、投げやりであり、そして今とても、高揚している。


 ばらばらになっていた何かの欠片が、急に正しい形に結ばれたかのように。



 これは、何だ?

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