12月18日
- - 1978年12月18日(月)
煩わしい。鬱陶しい。予想以上に付き纏われた。重い。安くてみじめな自己満足に僕を使うな、あの女。
世話役を雇って家のことから多少手が離れたと思ったらこれだ、大学などという退屈な場所に振り回されたくはないのに。講義が被っている日は要注意、どころの話ではない。この分だとあの女、僕が大学に行く日(すなわち水曜以外の平日)は全て僕をつけ回す気ではないだろうか。いや間違いなくそうだ。言われなくとも分かる。
一旦落ち着こう、他の出来事を書こう。まだ雇って二日目だが、世話役の男女二人組はかなりよくやってくれていると思われる。父は未だに僕と話すのを避けているようだが(いつまで根比べする気なのだか、せいぜいお手並み拝見といこうではないか)、世話役に対しては十分すぎるほど従って大人しく面倒を見られているようで良かった。あと数日彼らの仕事ぶりを見定めて心配な点がないようであれば、ここは多少の追加報酬の支払いは惜しまないことにして、夕食作りと二日おきの部屋の掃除も彼らに頼んでしまおうと思う。狡い考えだが、僕は開き直った。父が怪我で動けないうちになるべく聖域の始末を付けてしまいたいのだ。庭園のみならず、この機に乗じてもう閉じられるところは出来る限り閉じてやりたい。所有者である父が行動力を失くしているうちに、早く。だから使える世話役は存分に使わせてもらう。
あなたはどうせ視えなくなっていく。僕がどれだけ我が家の周りに呪わしい薬液を撒こうと、あなたはその視えない瞼の裏側に幾らでも、お好みの美しい幻想を描いては酔っていられるのだからいいではないか。今あなたは僕に腹を立てているかもしれないが、僕に抗う気力など今にあなたの身の内から消える。僕が消すからだ。だからそれまで暫し、能面たちに世話をされて牙を抜かれておくと好い。今後は柔らかい幻想しか嚥下できぬように。
そうしたらお父さん、僕が責任を持ってあなたに安寧をあげます。
そうだ、明日は雨模様になるらしい。東側の庭園が果たして狙い通り風化するか、楽しみだ。
ここまで書いたら最初よりは気が落ち着いた。万年筆のインクも補充したことだし、少しは冷静にあの女子学生の動向でも書くことにしようか。
あの女は今までの真面目で実直な、分かりやすく言えば「堅物」と称される類の振舞い(まあ僕とて周囲からの評価は「堅物」なのだが)を一体どこへ忘れてきたのか、人が変わったように僕を追いかけ回すことにしたらしい。全く呆れた豹変ぶりである。化粧っ気のない顔も鼻当てが僅かに曲がった眼鏡もざっくりと編んだだけの髪も、その辺の外見は特に普段と変わりはなかったが、今日は近づいた時明らかに嗅ぎ慣れない香水の匂いがした。そうか、そう来たか、と思って先週よりますます冷めた。香水自体は悪くも何ともないのだが、そういうことをすれば僕が落ちると思っている訳だ。成程。
彼女と被っている講義二つは近くの席で受け、その後昼食も共にし(正確にはさせられ)、夕方に今日最後の講義が終わって教室を出ると廊下で待ち伏せされており、いや待ち伏せくらいどうせしているだろうと思っていたので驚きなどなかったが、驚いた演技をしてやった。彼女はそれを見て大変満足そうだった。見たこともないような屈託のない顔で笑っていた。だからその折角の愛嬌は別の男に向けてやれば、きっとすぐに幸せになれるだろうに。僕に笑いかけるくらいなら動物園の猿でも相手に笑みかけていた方がまだ成果が上がると思うが、何故それが分からない。
待ち伏せからの流れで帰り道も一緒にということになった。僕と彼女は使っている地下鉄の駅が同じで、路線も三駅だけ重なっている。三駅目で僕が乗り換えるのだが、そこまで同行したいと言われ、承諾した。駅までの道を歩きながら、ここですっぱりと振ってしまおうかと余程思った。ここで「好意は嬉しいが申し訳ない」と誠意ありげな態度で伝えれば、これ以上この香水の匂いを嗅がずとも済むし、大学構内で顔見知りから物珍しげな目で見られることも回避できる。しかし僕は迷った挙句、それをしなかった。
何故しなかったのだろう? 今、改めて考えてみても理由が分からないのだ。だから僕は非常に苛立っている。何に苛立っているのか、その対象すら定かではない。自分自身か、あの女か、香水か、今日に限って線路内異音とかで徐行運転していた地下鉄か、それとももっと別の大きな何かだろうか。そして苛立ちの一方で、やはり自分以外の人間がただの操り人形に見える無感動の観劇状態も続いており、怒りと無感動がちょうど一対一の比率で混ざり合ってそれがまた不愉快でたまらない。頭蓋骨の隙間から、熱した針と冷たい針を交互に刺し込まれているかのようである。
あの女は駅へ向かう道すがら、「返事は急がないからまずはゆっくりお互いのことを知っていきたい」と宣った。
そうかそうか、僕のことが知りたいか。何が知りたい? 心か? 身体か? 僕の家が廃墟の街を丸ごと一つ囲っていることか? 帰宅すると半盲目の父親が居ることか? 七歳の夜に、つい先程まで生きていた人間の温かい血液を頭から浴びた経験を話してやれば、僕のことが知れて嬉しいと恍惚とした表情を浮かべるのか?
それより先に一つ彼女に言うとするならば、眼鏡のレンズはこまめに拭いた方がいい。
さて、僕の評判に傷が付かないようにあの女を振り切るにはどうすればよいだろうか。僕は自分の名声に傷が付くことは決して許せない。完璧に成れるはずの僕が完璧でなくてどうするのか、と常々思っているからだ。
よし、今夜はどうやらここで吐き出し切ったらしい。唐突な幕切れだが、ぱたりと筆が動かなくなった。
今日の日記は以上とする。
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