12月16日
- - 1978年12月16日(土)
今日は日記など書いている場合ではない。なのに僕は万年筆を握っている。
己に愛想が尽きそうだ。書かないと気分が悪くてやり切れないのだ。近頃何が起こっても必ず、これを後でどのように日記に書こうか、と考える癖が付いてしまった。何が起こってもだ。これではこの日記帳に依存しているも同然ではないのか、僕は。いや前置きはいい、とにかく今日あったことを書こう。
今日の昼間、父が右脚を骨折した。日常生活で僕の介助の手が必要となる場面が、今までとは比べ物にならないほど増えるだろう。そんなことは流石に無いと信じたいが、場合によっては週明け、大学へ行くことも出来ないかもしれない(それは本当に極力回避するつもりなのだが)。
しかし父が脚を折ったのは、僕が悪いのだ。全て僕が悪い。
順を追って書こう。まず昨日の日記の最後が「父が呼んでいる」で唐突に途切れていたが、この時点で既に問題が発生していた。昨夜遅く、いつもなら就寝も間近という時刻に父が僕を呼んだのは、「おまえは拝殿の辺りに何か変な物を置いていないか」ということを問い質すためだったのだ。そう、「拝殿近くの納屋に隠しておいた(12月13日参照)」物といえば僕が庭園を潰すための道具一式である。あらゆる植物を一発で死へと追いやる、あの強力な薬剤を含む一式。何故父があれの存在に気付いたのか、と、彼の第一声を聞いた時は全身の血液が凍り付いたような心地がした。
急速に血の気の引く冷たさを感じつつ父の話を聞くに、何故かあの納屋から僕が水を入れていた瓶(実に幸いなことに薬の瓶ではなかった!)が1本だけ外に出ていて、拝殿への道の真ん中に転がっていたらしい。父は拝殿への道を歩いている途中、杖に瓶がぶつかったことでそれに気付いた。確かにあの納屋の扉は建てつけが悪いので少し開いてはいたが、そんな所まで20メートル近くも、たった1本きり瓶が自然に転がるなどということがあるのかは甚だ疑問である(実に腑に落ちない、不気味である)。が、とにかく事実として瓶はそこに転がっており、それで父は「こんな妙な物がここにあるということは、息子が何かやっているのではないか」と直感したのだという。恐ろしい勘だ、いつものあなたは僕が選ぶリボンの色すら見抜けないというのに。
そもそも昨晩の父は、夜は一人で屋外に出るなと僕が普段から釘を刺しているにもかかわらず、この冬の夜更けに拝殿へ行こうとしたのだ。おととい14日の夜が満月だったのに満月礼拝を忘れていたことを急に思い出したから、一晩遅れでもやっておきたいと思ったそうで、入浴の後に慌てて外に出たのだとか言う。なんという人だろう、息子としては呆れて物も言えなかった。だが彼はそこで運悪くも見つけてしまった、僕の秘策の一部である水の瓶を。そして結局礼拝を取りやめて家に戻り、僕を呼び出した。それが昨日の日記の途切れた後である。
父はやはり先日僕が「庭園を閉じたい」と発言したことを強く気にしていたようで、おまえはまさか聖なる庭に何かしようとしているのではあるまいね、と色濃い猜疑をもって問い詰めてきた。僕は当然否定し、あの瓶は庭園の植物に栄養剤をやる時に使っていたものだ、よからぬことを考えているどころかむしろ庭を美しくしたいんだ、と我ながら滑稽に過ぎる綺麗な嘘をひたすら言い張った。父はそれで何とか引き下がって就寝してくれたが、芯まで納得させられたかといえば、全くそのようなことはあるべくもなく。
一晩が明けて今朝、改めて僕達は口論になった。朝食もろくろく用意せぬうちに空腹で言い争い、空虚な嘘の主張を続ける僕に嫌気が差した父は気が立った状態で玄関を飛び出し、僕の制止も聞かずに拝殿へ行こうとして、急ぎ足で途中の石段を踏み外し、右脚の骨を折った。
だから言ったのに、止まれと。
何故いつもそうなるんだ、あなたは。僕の忠告を、誘導を、いつも聞かずに。僕に従っていれば安穏と停滞した閉鎖的生活のひとつやふたつ、実に簡単に送らせてやるのに。僕に従ってさえいれば、僕があなたの脳味噌をぼんやりと幸福の溶液に浸して、思考を手放させて、完全に平和的な老衰をくれてやるのにな。こんなにも都合よく看取ってやると言っているのにお父さん、わざわざ馬鹿をやって満足か?
そうとも僕が悪いのだ。あなたをきちんと管理下に置き切れない僕が悪い。
今日がちょうど医師の往診日に当たっていたのは不幸中の幸いだった。急遽骨折の処置もしてもらった。助かった。今、父は部屋で固定した脚を吊って寝ている。
ああ駄目だ。こんなに書き散らして、今夜もなかなか区切りが付けられない。延々と己の内面をここに開陳してしまうではないか。どうしてくれるんだ、どうして僕は今、一日の中で今が最も楽しいと感じているのだ。
こうして一文字を書くごとに、何を憂えているのかも定かでない罪悪感(らしきもの)が一文字分ずつ積もっていく。だがしかし同時に一文字分ずつ、何を悦んでいるのかすら分からない解放感と酩酊感(のようなもの)が、罪の意識を超える速度で山積していく。つまり、僕は今「書く」という行為に酔って、それを日々の支えとしている。いつの間にかそんな風になってしまった。目的と手段の逆転、或いは主客の逆転が起こったのだ、僕の道具であったはずの日記帳がいつの間にか僕の上に立ち、僕を使っているかのようだ。
酩酊か。酩酊という言葉からは、酒を連想する。我が家の台所にも何種類かはまだあるはずだ、父は祭礼の時を除き飲まなくなって久しいが。僕は別に酒は好きでも嫌いでもないが、たまにはあの薬品臭い液体を飲んでやるのもいいかもしれない。どちらかといえば僕はアルコール臭よりも、庭園に撒いたあの薬の香りの方が好きだが。いや、「どちらかといえば」ではないな。「どう考えても」、あの薬剤の香りの方が好きである。
ああ何もかもが面倒で、重たい。酒を引っ張り出して少し飲んだら寝てしまうか。明日の面倒は明日の僕に考えさせよう。万年筆のインクがそろそろ残り少ないようだ。万年筆まで僕を裏切るか。四方八方が僕に不都合である。いや、そこまで悲劇の主人公ぶるとあまりにも醜い、やめておこう。
飽きた。今日はここで切り上げる。
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