12月15日

- -  1978年12月15日(金)


 何が心穏やかに、だ。僕の平穏は三日ともたず、今日早速打ち破られた。思えば奇妙なことだ、日々に動きがなく時間経過の感覚を失ってしまいそうで恐ろしいという理由で日記をつけ始めたというのに、こうして記録に残すようになった途端、随分な揺れ動きようではないか。いや、それとも元からこの程度の揺れ動きは常に有ったのを、僕が意識していなかっただけだろうか。毎日文字にしていく作業を通して僕の感性が幾ばくか蘇生されたのか。その可能性はある。いや、今その考察は脇に置こう。早く今日の出来事を書き留めたい。


 こんなことをわざわざ特筆するのもどうかと思うが。僕は今日、女子学生から恋の告白を受けた。

 相手はあの法学研究の発表で班を組んでいた女子学生だ。彼女は誰より精力的かつ的確に研究を進めてくれたので、その能力は僕も素直に買うところであったが、まさかそう来るとは思っていなかった。曰く、僕と同じ班になったからひときわ頑張ったのだそうだ。そのような浮ついた理由で力を入れて解釈されたとは、法律の側も思わなかっただろう。僕も思わなかった。

 告白を聞き、何かが非常に冷めてしまった。彼女が度々僕に送っていた視線の意味が一気に理解され、そのことがかなりの不快として感ぜられた。あれは学問の知的興奮に浮かされた人間の目ではなく、下心を源泉とする目つきだったか。人間など下心がなければ動かない、ということは十分に分かっているが(僕自身とて下卑て俗っぽい想念だけを理由として日頃の行動を決めているのだから)、それでも残念に思った。折に触れてこう問いたくなる、「純粋」とは一体どこにあるのだろう、と。ごく稀に「純粋」らしき熱量を持っていそうな人間と出会うと、僕は期待することを止められない。今回もそれだった。もしかしたら彼女は純なる学問の探究者であるのかもしれないと、つまりは一瞬でもそう期待した僕の側が馬鹿だったということである。

 ずっと前からとても好きだった、と言われても。その好意は僕でない別の男に向けた方が遥かに実ると思われるが。

 何なのだ。卑怯な剽窃者どもに、浮ついた女、そして毒にも薬にもならぬ凡庸ども、そんな者らと僕を組ませて教授は満足したのだろうか。あの教授、僕という才能を素晴らしい素晴らしいと日頃褒めちぎってやまないくせに、才能という名の宝石を丁重に扱う心得があるわけではないようだ。このように書くと僕がひどい自惚れ屋であるようだが、才ある者がそれを正しく自覚して何が悪い。むしろ自覚せぬ方がよほど世の中の損失というものだろう。あの教授が器として小物であることなどとうの昔に分かっていたが、いよいよ呆れた。


 女性から恋情を打ち明けられることは初めてではない。前にもそういうことはあった。打ち明けてきた者の全員ではないが、一部を「恋人」としてみた時期もあった。だが僕はどうにも、恋愛と名の付くものに対して良さを感じることが出来なかった。向こうは大いに耽溺し、豊かなロマン(本当に寒い言葉だ、僕はこの単語が嫌いで仕方がない)とやらを味わっていたようだが。しかし狂おしいほど愛しているだとか死んでもいいほど幸せだとか言われても、僕にはその感情が爪の先ほども共有されていなかったのだから仕方がない。ていよく縁を切った何人かの女達の中で、もしかすると未だに僕が「最高の恋愛の記憶」の象徴なぞを背負わされて刻まれているのかもしれないと思うと、心底吐き気がする(周りの男達の体たらくを聞くに、僕程度のものでも女らの「最高」となれてしまう可能性は大きい。嘆かわしい)。しかし僕にとってあれらは総じて、つまらない実験以外の何物でもなかった。


 さて、今日想いを告げてきた彼女だが、彼女は許されないことをした。歯の浮くような、明らかに慣れていないのだと分かる長台詞を吐くだけ吐いたら、僕の反応を一切待たずに「返事は急がないから」とだけ言って走り去ったのである。

 やられた。彼女に逃げられたことで僕は強制的に、返事を保留にしている状態にさせられたのだ。その場で振ることができなかった、これは大失敗である。もう魂胆は見えた。あれは保留状態であることをいいことに次回以降、講義のたびに僕に付き纏おうという顔だった。どうやらそういう曖昧で押しの利く状況を作ることに関しては、あの発表準備の時と同じくしっかりと頭が回ったらしい。面倒な。

 どうしてやろうか、あの小賢しい女。


 外界の、つまりこの家の所有域に関係のない人間と深い付き合いを持つならば、僕の気持ちを解ってくれる人間が好い。数えれば十指で足りぬほどの才を持ち、故にどこにも馴染めず、一般的感性から遥かに外れている僕の気持ちを解れる人間、すなわち僕と同じ視座を持っている人間。


 まあそろそろこの話はやめておこう。紙幅は充分に割いた、また書いただけ精神が落ち着いた。僕は恋愛が苦手である。不得手なのではなく、単に嫌いな臭いがするために。

 明日は父の定期診察だ。不意の来客があってもいい程度にいつも家は片付いているが、医者が往診に来るまでに今一度しっかりと掃除でもしておこう。父はいつも通り僕の頭の中身などつゆ知らず、平和に暮らしているようである。それでいい。なるべく長きにわたり彼には平穏で居てもらわなければならない。彼は先ほど入浴を終え、


 何だろう、父が向こうで呼んでいる。ここで切り上げる。

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